宵

すずめの戸締まりの宵のネタバレレビュー・内容・結末

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

『君の名は。』で災害を食い止めようとした話、『天気の子』で災害を呼び込む話、三部作のように作られた『すずめの戸締まり』は災害による傷を癒す鎮魂の話でした。震災サバイバーの主人公岩戸鈴芽が「ただいま」を言うため、そして「おかえり」を誰かに言えるようになるためのロードムービー。

今年だけでも『やがて海へと届く』や『天間荘の三姉妹』が公開されているように、震災とそれに対する鎮魂、生者と死者の物語は邦画で描かれるようになったし、震災後文学はとっくに確立されている。が、新海誠規模で大々的に宣伝され、普段映画をあまり見ない人でも劇場に足を運ぶ作品で、3.11を描き切ったことはすごいと思う。そんなに時間が経ったのか、と思った。アニメーション映画の題材として描かれるほどに。
それはまた、現実の出来事をアニメーション映画というエンタメで鎮魂するというメタ構造にも繋がっている。風化させないためにはこういうエンタメとして描くのも大事。しかしやはり今も苦しむ被災者がいる以上、エンタメ消費してしまうことに対しての批評は公開後これからもっとなされるべきだろうし、解釈や議論は活発にされてほしいと思う。

日本神話の系統を継ぐような岩戸鈴芽(アマノウズメノミコト)という名前や、子供のような無邪気さ残虐性が見え隠れする神様としてのダイジン、おそらく要石は人柱のようなものだったと推測されること、そしてその土地の人々の暮らしや記憶により「鎮魂」とするという設定など民俗学的な部分は過去作に繋がるものが多く、好きな人も多いのでは?
特にダイジンが健気で可愛かった。ダイジンと鈴芽、鈴芽と環さんの対比も綺麗にまとまっていたように思う。
ダイジンが、自分を要石という役割から解放してくれた鈴芽に懐くのは納得。それ以外にも一度餌(供物とも取れる)をもらって「うちの子になる?」とまで言われているので、鈴芽に対して子供らしい執着心を見せるのは分かりやすかった。そんなダイジンと鈴芽の関係と被るのが、鈴芽と叔母・環の関係。震災サバイバーの鈴芽も環に「うちの子になる?」と同じ文脈を言われて結果庇護下にある。中盤サダイジンに操られた環が、上記のセリフを言ったことに対して「そんなこともう忘れた」的なことを言っていたけれど、そのシーンで鈴芽はダイジンのことを思い出しもしていないの、辛いな。言った側は忘れていても言われた側は覚えている、の図。そして「うちの子になる?」の責任をとって鈴芽を育てた環と、自分の言ったことを忘れてダイジンに「大嫌い」と言い放つ鈴芽の違いも考える余地があると思う。
ちなみに、環に「忘れた」発言させていたサダイジンにこの時怒って飛びかかったダイジンは、そう言われる悲しさをわかっているからなのだろうか。健気だし、まるで母親が傷つくのを阻止したい子供のようで辛いシーンだった。

印象的だったシーンをもう一つ。
宮崎→愛媛→神戸→東京と各土地で戸締まりをするとき、その土地に暮らしていた人々の声を聞く設定に従って耳を澄ませた鈴芽が聞くのが「おはよう」から始まる日常的な会話だったのに対し、故郷宮城で最後の戸締まりをした時に聞く声が「行ってきます」だった。おそらく宮城以前の戸締まりの土地は、過去に大災害があったとしても復興している街の周辺であり、さらに忘れ去られ廃墟になった原因としてあるのが人口減少や土砂崩れ(死者がいた等の言及は無し)でそこに暮らす人々の命がいきなり奪われたという意味合いを持つ土地ではないから。それに対して「行ってきます」の言葉と共に玄関のドアを開ける人のシーンをたくさん入れている宮城での戸締まりは、どうしても「行ってきます」と言って出て行ったきり「おかえり」を言えなかった人たちの存在を感じる。大切な人に「おかえり」「ただいま」が言えなかった鈴芽が扉を閉じて「ただいま」という時、確かに彼女は「鈴芽の、明日!」になっている。

あの時日本で地震を体験した人たちが少なからずトラウマや傷を抱えている中で、今回この映画を良かったと簡単に言うことが躊躇われる部分もあるけれど、新海誠監督の作品の『君の名は。』以降では一番見た後にずっしりとした余韻が残る作品だった。
おそらく『風の電話』という邦画が影響を与えていると思う(広島の叔母の元で生活する震災サバイバーの高校生ハルがヒッチハイクをしながら故郷岩手の大槌町へ行く話)ので、ぜひこの作品も見てほしい。
宵