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すずめの戸締まりのYMのネタバレレビュー・内容・結末

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

「『君の名は。』から『すずめの戸締まり』へ ~震災と新海誠考」

新海誠が2016年に『君の名は。』をつくってから6年。ようやく、ここまできた。まさしく感動的な一作だ。
「ポスト3.11」を真正面から扱った本作『すずめの戸締まり』は間違いなく、歴史に残る作品となることだろう。なぜなら、2016年『君の名は。』、2019年『天気の子』につづく2022年『すずめの戸締まり』はひとつの円環を閉じるもっとも重要な一作であるからだ。「隕石」「豪雨」そして「震災」とつねに災害を描いてきた三部作を通じて、新海誠が「あの震災」をどう描いたのか、つまり新海誠の3.11観が浮かび上がる。そしてそれは、わたしたちニッポン人の震災観とも言えるのである。

目下、公開から4日が経ち、本作は賛否両論である。すなわち、「3.11」を題材にエンタメ作品をつくり、モティーフとして「被災者」や「緊急地震速報」を扱うこと、新海誠があのタッチで被災当時のリアルな絵を描いてしまうことへの批判が高まっている。
また、そもそも2011年から11年、いまだ傷も癒えないなかで「エンタメ」が扱うことに、忌避感を懸念する声も多い。

だが、私はそうしたものに一定の理解はしつつも、それでも今作を全力で評価し、擁護し、援護したい。今作が『君の名は。』からはじまる三部作のなかでもっとも観る人が多い作品となってほしいと願っている。付記しておくと、「3.11」を「エンタメ」で扱うということそのものに嫌悪を抱く人もいるかもしれないが、それはすべての議論を破棄してしまうので、私は与しない。人類は芸術作品で、災害だけでなく疫病、戦争など幾度となく歴史にあらわれた災禍を扱い、そして乗り越えてきた。「エンタメ」が「芸術」に入らないとどうしていえよう。また、同様の議論はほかでも繰り返されてきた。ホロコースト然り、オウム事件然り。9.11でもそうだといえるのではないだろうか。幾度も議論しながら、描かれてきた。3.11も、そうなるだろう。その嚆矢が、『すずめの戸締まり』だ。

前述のとおり、2011年の東日本大震災から11年が経過した。その11年という数字をどう扱うか。それがひとつの問題となっている。今作に対しては、震災を映画で扱うのが「はやすぎる」という人と、「ようやく」という人がいる。私は、その両者がいることが、本作のもつもっとも重要な役割のひとつだと思う。
これまで、新海誠のような客入りが見込まれる作品で、しかもファンタジー/完全創作のエンターテイメントで、「3.11」を扱った作品は出てこなかった。しかし、ありていに言ってしまえば(そしてあえて乱暴な言い方をするならば)、“国民全体が共有しているナラティヴ”である。日本でなにかを描くのであれば、いつかは、だれかがこの題を採らねばならない。そして、誰が最初にやるかというなかで、新海誠がそれに手を挙げた。3.11から10年超という年月を経たことに対して、「早い」か「遅い」かを論じるのは、その断絶は決して埋まらないという点ですでにあまり意味がない。なぜなら、最初だから。そうではなくて、誰かがやらねばならないことを、新海誠はやった。そう考えるのが、自然なのではないだろうか。真正面から描くことにはかなりの覚悟が必要だったはずだ。その覚悟に、まずは敬意をささげたい。

『すずめの戸締まり』は、宮崎県にはじまり紆余曲折を経て岩手県にいたるロードムービーである。道中、さまざまな出会いに助けられながら、すずめと草太は愛媛(西日本豪雨)、神戸(阪神淡路大震災)、東京(関東大震災)で後ろ戸が起こす災害をひとつひとつ鎮めていく。だがその過程で草太は鎮め石とならねばならないことを覚悟し、すずめの手で封印されてしまう(ここの場面のすずめの葛藤はすこし『天気の子』ぽい)。その後、どうしても救いたいと考えるすずめは、松本白鸚演じる宗像の「生涯で通れる戸はひとつだけ。そこを探せ」という言葉に、忘れかけていたかつての記憶を思い出す。かつて冬の日に、扉をくぐったことがあった。すずめは周囲の人を巻き込みながら、故郷を目指す。母と生き別れ、自身も被災した三月以来、帰っていない岩手県へ──。

『君の名は。』では、少女と入れ替わるという不思議な体験をした少年が、調べてみるとその少女が暮らしていた村は3年前に隕石の落下で壊滅していたと知り、少女も死んでいることがわかる。どうにかその運命から少女ら救えないかと足掻く少年は、記憶を頼りにいまは誰もいないその村の山の最奥に位置する社に赴き、もう一度彼女と入れ替わって村に警告するため乾坤一擲の一手に出る……というストーリーだ。「3年前の隕石落下」ということでぼかされていたが、2016年当時でも5年前の震災を扱った作品だということは明白であった。明白でありながら、しかし、最終的な解釈は観衆に委ねられた。
べつに、隕石落下に直面した、運命で結ばれる少年少女の話ということでおしまいにしたっていい。新海誠自身も、当時は明言しなかったという。ただ、「かつて起こった災害をいま知って、さらにさらに、それを被災者に伝えることができるなら? 悲劇を、防げるんじゃないの? なかったことに、できるんじゃないの?」という主題を、2016年に与える。そこになにも意図はなく、ただ「いつもの新海誠」と言い切れるだろうか?
思い出してほしい。2016年は記録的な年だった。『君の名は。』が公開される前に映画館を席捲していたのは、庵野秀明の『シン・ゴジラ』であった。『シン・ゴジラ』は7月末に公開されるやいなや一大ムーブメントを起こし、興行収入ランキングトップに躍りでるが、8月下旬に公開された『君の名は。』のヒットに押され、1位の座を譲ることになる(1954年に初代『ゴジラ』の興行収入を抜いたのも『君の名は』なのだが、歴史は繰り返す)。
とはいえ、『シン・ゴジラ』もまた、大ヒットした3.11を扱うエンタメ作品のひとつで間違いない。たしかに、『君の名は。』同様に『シン・ゴジラ』も直接「地震」を描いたものではないし、「死」を意識させるものもない。事実、熱線で大量の人が蒸発するシーンはカットされ、死体は極力映らないようになっていた。しかし、比喩的な表現のレベルではどうか。巨大不明生物が通過した蒲田の様子は津波が襲ったあとの報道写真に酷似しているし、クライマックスであるヤシオリ作戦は冷却材をゴジラの口にポンプ車で注入する。それは、幾度となく私たちがマスメディアで目撃した福島第一原発事故の姿の変奏形だ。そこにあるのは福島か東京かの差異しかない(それはもちろん、強大なものなのだが)。ラストシーンの避難所は言うに及ばない。このように、2016年夏は、震災後を強く意識する大ヒットエンタメ作品ふたつが出現した年なのである。
ではなぜ2016年だったのか。それは“5年”経ったからにほかならない。これらのことを描くのに、慎重に、5年の年月を必要としたのだ。そして、読む/観るほうもまた、おなじだけの年月を必要としたともいえる。

そこから、3.11を真正面から捉える『すずめの戸締まり』まで、6年かかった。

思えば、宮藤官九郎は2019年の大河ドラマ『いだてん』で「関東大震災」のシーンに仮託することで「被災すること」だけでなく震災そのものを描いたが、宮藤のもうひとつのNHKにおける代表作である朝の連続テレビ小説『あまちゃん』では直接の描写はせず、観光事務所に置かれた町の模型に割れたガラスが飛び散って壊されるという、比喩的な描き方をおこなった。直接的なようでいて、婉曲的でもある表現。だが、『あまちゃん』が放送されたのは2013年の4月から9月。「3.11」からわずか2年しか経っていなかった。直接描写をしなかったというより、できなかった、のほうがただしいかもしれない。
宮藤はそこから“6年後”の『いだてん』で、関東大震災の描写に磨きをかけた。実際に揺れる東京を描き、混乱を描き、被災者の悲しみ、被災地の混乱、絶望とちょっとの希望を描き、柄本佑にはその日の朝に喧嘩別れしてしまった妻への後悔を語らせた。
それは、ただ関東大震災を描いたのではないのはあきらかだった。なぜなら物語はこのあと復興五輪としての東京五輪1940に向かうのであり、ドラマのクライマックスでは戦後の復興五輪として東京1964を迎えるのであり、今作の放送後には「復興五輪」としての“TOKYO 2020”が控えている(はずだった)のだから。
だから、外的要因ゆえに書かざるをえなかったのかもしれない。それはわからない。しかし、宮藤は『あまちゃん』とはまた違ったやり方で、震災を描くことに成功した。その間の作品(『ごめんね青春』(2014年)、『ゆとりですがなにか』(2016年)、『監獄のお姫さま』(2017年))では宮藤は一度も震災を扱っていない。6年経ってふたたび、『いだてん』で震災を扱った。それだけ、時間をおく必要があったのではないだろうか。
こうしてみると、新海誠と宮藤官九郎、日本エンタメ界を代表するふたりの作家は、それぞれおなじ年月をかけ、二度「ポスト3.11」に挑んだことがわかる。6年のあいだ、おそらく、自問自答し続けたのではないか。ふたりはそれぞれ、一度書いたあと、もう一度正面から挑むのに、6年かける必要があったのではないだろうか。

であればこそ、描くほうがそうなら、観るほうはどうか。私は、観るほうもまた11年経った(『君の名は。』『シン・ゴジラ』イヤーをまんなかにして)からこそ、受け入れる/受け止める素地ができて(きて)いるのだと思いたい。早いか遅いかの議論が起こるのは、これが最初だからにすぎない。思いを馳せつつ、エンタメとして消化できうる時代に差し掛かっている。それは決して悪いことではない。まえにも述べたとおり、人類は物語のなかで災禍を描き、記憶を継承してきた。いまのティーンエイジャーはポスト3.11の期間のほうが長く、小学生や中学校低学年までは、もしかしたら震災そのものを直接は知らない。できごとはみなそうなる運命であり、その記憶を留めておくために、人類は物語を生み出した。であればこそ、『すずめの戸締まり』もまた、ポスト3.11の物語として、継承する役割を持っていくのではないだろうか。
新海誠は決して、本作を安直な「感動」モノにしようとは思っていないはずだ。その逆で、随所に慎重に繊細に描いたあとが見られる。

ここでもうひとつ付記しておくが、よく批判もされ、公式twitterでも異例の警告がなされた「緊急地震速報」の演出は、私は問題が無いと思っている。すでに日本国民のほとんど全員が理解できるシステムとして確立されている。作中の受け止め方(「なんだあ、震度四か」「ちょっとビビったね、警報大げさすぎ」)もふくめ、リアルだ。それは、3.11が国民全体が共有しているナラティヴであると同時に、しかし地震自体をそんなに恐れて生活しているわけではないという感情と、ほとんど相似系のものとしてあらわれる。だから、小道具として使うのは、物語上必要だろう。

脚本のなかで、すずめが言っているではないか。宮城で車から降りたとき、芹澤が言う。「ああ、ここ、こんなに綺麗な場所だったんだな」「……え、きれい? ここが?」この返し、すずめは被災当事者、芹澤は(おそらく)東京者=部外者の視点だ。すずめは心の奥底にしまっていた記憶を故郷が近づくにつれ思い出しはじめていることが示されている。東京の者が向ける無自覚な「被災地への視線」に、一瞬の不快感を閃かせた貴重な一行だ。
そして、舞台は三陸へと至る。ストレンジャー・シングスばりの裏側の世界に突入した彼らが直面するのは、津波に襲われたあと火の海になった三陸とおぼしき瓦礫の世界だ。物語のクライマックスは、ここで起こる。
「命は仮初だと、知っています。死は常に隣にあると、わかっています。それでも……私たちは願ってしまう。いま一年、いま一日……いや、いまもう一時だけでも、私たちは生き永らえたい」目を閉じれば、そこにかつてあった街並みや人々の姿が映し出される。愛媛でも神戸でもそうやって戸を閉めてきた。しかし、あまりにも東日本大震災の描写は別格だ。絵としての衝撃が強いのだ。私は、ここで涙を禁じえなかった。それは、私たちがまだ、11年経っても受け止めきれていないことを、思い出させるものだからかもしれない。だが一方で、11年経って忘れそうになりそうなことを思い出させるのかもしれない。だから、このタイミング、すなわち3.11を「克明に憶えている人」「忘れそうな人」「生まれてから震災後のほうが長い人」「そもそも生まれてなかった人」が入り乱れているいまだからこそ、作られる必要のある映画だったといえるのだ。かくして、新海誠の「ポスト3.11」は完成した。

では、「お返し申す」「お返しします」とはなんだったのか。なにを返しているのか。此処から先は、すこし妄想だ。それは劇中では、災害で喪われた人々の心の声に耳を傾け、後ろ戸を閉める儀式のセリフとしてあらわれていたが、もうひとつ、返していないもの、それは新海誠が『君の名は。』で「3.11」を婉曲表現/ファンタズムを用いて描いたことを、6年越しに「返して」いるのではないだろうか。
すずめは、心のなかではもう母は喪われたことを理解していた。受け入れられていないだけだった。それを、見つめなおし、肯定し、そこから一歩踏み出す。そのために、戸を閉め、「いってきます」と最後に言う。あったことをあったと素直に肯定し、見つめなおすということ。時間は不可逆であり、「なかったことに」なんてできるわけがない。認めて、進んでいくしかないというメッセージ。2016年には必要だったかもしれないファンタズム。でもいまは……それは、新海誠もおなじであり、私たちニッポン人も、そうなのである。
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