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PLAN 75のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

PLAN 75(2022年製作の映画)
2.0
【システマティックに死がもたらされる世界で】
第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でカメラドール(スペシャル・メンション)を受賞した『PLAN 75』が公開された。本作はオムニバス映画『十年 Ten Years Japan』の一編の長編映画化であり、早川千絵監督初の長編作品である。予告編を観ると、日本映画とは思えぬリッチで絵画的な画作りが特徴的であり惹き込まれた。なんと撮影監督は『クローンは故郷をめざす』の浦田秀穂であった。今回は新宿ピカデリー朝一の回で観賞した。朝の回にもかかわらず満席近く埋まっており、題材に対する関心の高さがうかがえる。しかし、想像していたより良い映画...ではなかった。

少子高齢化、コロナ渦、ロシアのウクライナ侵略による物価上昇、あらゆる大きな社会問題が雪崩のように日本に襲いかかり、政府は開き直ったように国民に寄り添わず新しい資本主義として「投資」を推奨し、劣化に劣化を重ねた中抜キングダムと成り果てた。そんな状況で高齢化対策として75歳以上に自死を選べる制度が導入される世界は、もはや限りなく現実に近いフィクションと言えよう。国家が死の幇助を容認する。システマティックに老人を死に追い込む不気味さが、浦田秀穂による負のオーラを纏ったカメラワークで切り取られていく。待合室のディスプレイで「人は選んで生まれてくることはできないけれど、死は選べて良いよね」とお婆さんがにこやかに答える。ネガティブなことをいかにポジティブに言い換えて負を隠蔽するかに執着した「今」の表象としてここまで居心地の悪い場面はないだろう。その映像の嫌らしさを背にするミチ(倍賞千恵子)、切れてディスプレイの電源をブツっと切るおじいさんを同時に画に収めることで陰惨さを増幅させる。テレビでは、ぬるっと将来的に自死の制度を65歳に引き下げるプランが提示され、日常は続いているが社会が不要な人を排除する風潮になっていることが嫌でも体感せざる得ない。そして現実に動くと、仕事がそもそもない。仕事がないので、住居の契約もできない。街では、ベンチに排除オブジェクトを置こうとする。子どもが怪我しないような素材を選びながら確実に弱者を排除していくが、そこには悪意がない。仕事として粛々と素材を選ぶ人が映し出される。

『PLAN 75』は日本映画にありがちな、閉塞感を叫んで訴えることはせずに、制度の下で日に日に社会から排除されていく人の日常を淡々と捉えていく。この覚悟には観る方も襟を正して観賞せざる得ないのだが、どうも掘り下げ方が甘い。まず、冒頭でショッキングなシーンが挿入される。それが象徴となりPLAN 75が成立される過程が説明される。PLAN 75に参加すると最期の生活費として10万円支給されるわけだが、このシステムに関していささか呑気であるのだ。国家によりある種、人間の選別が行われる。極端な話、殺人が容認される。これは人々にも影響を与えるであろう。あの人は役に立っているから生かそう、役に立ってないから殺そうみたいになるだろう。高齢化対策として死ぬ権利を与えるが、それに10万円を支給するとなると、例えば国家の支援にあぶれた若者からは不満が出てくる可能性があるだろう。「老人は死ぬ前に豪遊できて良いよな。」と。それが分断を引き起こし、老人に対する嫌がらせが起きると思うのだが、PLAN 75制度開始後の世界描写においてこの手のシーンが存在しない。PLAN 75の職員に対して抗議のシーンはあるが、老人に対する場面がないのは片手落ちではないだろうか。

また、本作には介護業界で働く外国人労働者の場面があるのだが、これが存在としてそこにいるだけとなってしまっている。老人の介護をしたり、亡くなった老人の遺品を整理したりするのだがそれだけで、このような労働を通じて湧き立つ感情が一切見えてこないのだ。確かに、少子高齢化に伴い、外国人労働者を介護業界に招こうとする動きはあるけれども、ミチやヒロムの感情に深く眼差しを向けている様子と比べると、問題提起のためだけに置いているように見えあざとさが鼻につくのである。

だったらフォーカスをミチやヒロムに集中させて描いた方がシャープにすぐそこにある問題に斬り込めたのではないだろうか。
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