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なつかしの顔のニューランドのレビュー・感想・評価

なつかしの顔(1941年製作の映画)
3.7
✔『なつかしの顔』(3.7p) 及び『この父に罪ありや(『真実一路』前編改題短縮版)』(4.6p)『更生』(3.4p)『ぼくらのゆめ』(3.2p)『熱情の翼』(2.9p?)▶️▶️
 
 『なつかし~』。成瀬のこの中編は度々やってるから、席がほぼ埋まったのは、この催しの宣伝?的にも目玉扱いされた併映の戦前作、小チームの革新的戦闘機の開発·実用化に、本体·設計図を合法的に·或いは強奪も辞せず、奪おうとする日系人を表に置く外資系企業や敵対国スパイの暗躍を、怪しいのと清廉の男女関係の駆引きも交えて描く、アングルもテンポも図や美術装置まキビキビして伸びやかな作品『熱情の翼』の人気のせいかもしれないが、半分迄ゆかぬ所でもう見終わった気がして出てしまった。
 成瀬のお馴染みの世界も、今では考えられない事だが、戦中~戦後暫くは長いスランプの、只中とされていた。実のところ、成瀬の最も心優しく、柔軟な、得難い味わいの発酵期である。戦中を日中戦争勃発以後と捉えるなら、『鶴八鶴次郎』『旅役者』『はたらく一家』『まごころ』『歌行燈』等は、最も愛おしい成瀬映画である。
 本作も前後(人の縦の動きと逆にもや、自然フォローの)のカメラ移動も·鋭さを和らぐ中間や浅い緩衝地帯を挟んだ切返しも、模型飛行機を追う柔軟なパンティルトの自在伸びやかさから始まる延長、の素直で的確な組立でなっていてる。亀岡の映画館で掛かってたニュース映画に写ってた、と伝えられきた、出征兵の銃後の家族(その母·新妻と赤ん坊·弟の農家)の頭に取り付いた、見なくては·伝えなくてはのオブセッションとして、バスの車窓や後方に部隊が撃ちながら走ってるイメージが現れもする。
 ここでの登場人物らは決して我儘な自分の意見·行動は控え、狡さも出してくる、決して大事や流れに棹さすは避ける、日本の共同体に大人しく染まった人々·子らだが、同類の我々は決して否定出来ない·以上に血に眠るを自覚せざるを得ない有り方の細部と流れを見つけてく。仲間の一人が木から落ちたのに、伝えるだけで、我れ関せずとその場から走り逃げてく子ら。出されたおやつに積極手を出すのはと、横を見つつの躊躇い。観に行ったニュースに我が子を見逃しても、皆と同じに観たふりを。その料金を模型飛行機にあてても、観たと言う。自己の欲望·夢·過失を極端に卑下する人たち。
 しかし、「元々観たくは。皆が高揚するときに、(妻の私がやはり)泣いたら水を差す」と説明し(義母の心持地まで代弁し)、亀岡の映画館から今日の夜、村で借り取って、しっかり上映会を、と決まったと伝えられ·気兼ねも失態も消え去る、好意という以上の身内の評価·シンボル化への昇華を迎え、張りから解放されると、「見逃したら、何回でも上映を」とまでを呼び起こす、流れに乗った自己の主張が各者集いでスッと語られ続け、その前後デクパージュも話がけつを食い合って、一斉に語りだす寄りのカットの速め重ねが実現され、杞憂的な何かが乗り越えられ、邪気のない善意が残る、括りへ。
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 久しぶりに観た『なつかし~』は、描写も心も最も美しい作であると、再確認したが、田坂の代表作の一本『眞実一路』が、これまでの目が届く範囲の上映素材だった、前編だけだが90分16ミリ版の画質の悪さから、1時間弱に再編集はされてるとはいえ、特にいいとも言えない(傷が多く·繋ぎも不全で·絵も格と力をやや欠く)が35ミリで観ると、やはり·かなりイメージが刷新される。何年か前、35ミリで観れた『路傍の石』も16ミリ版での傑作に後ひとつから、史上の大傑作と直した評価に似て、今回も映画史上最も美しく確かな、画と心を認めた。成瀬と田坂、日本人に生まれてよかったは、独善的だが、それくらい圧巻だ。
 『眞実一路』前編短縮版の前に、ごく初期のサイレント映画のこれも大幅短縮版『更生』が上映されたが、そこでの低く歩く脚のフォローらの長く力強い移動らに比べると、移動は効果的だが強引なものは抑えられ、火事や暴行からの·恩人の娘の救出の、倒れる花瓶·滴る水·助け出し物を動かす激しい動的カットと極端なモンタージュもない(『更生』は、窮乏の末の犯罪を許され·更生に向かわせてくれた、父娘の、火事·その後の生活危機を、身を挺して救い、恩返しし·自己も成長してく青年の話)。しかし、描写はより緊密に美しく噛合ってる。そして、両作に共通する、悲劇のヒロインの顔=表情と感情を角度·フィットパンや移動で、心の内の生めかしさ迄·意識されない自然なレベルで、都度適宜·常に凄いスキル反応で捉えこんでる事。他作には観られない作家的特質·天才は、40数年前に観た(もっと後かも知れない)ボヤッとした16ミリ版からは充分に感得出来なかった。
 それも含め、役者を捉える低め仰角や俯瞰めのその都度の親しさ·いとおしさ·造型。が、あくまで家庭や友人·血縁に留まる、つましい価値観と美。人間が、理想と共に切り離せない、自身の生命の艶めかしさ。それは内面から凄絶で、また自然この上ない備えた資質だ。俯瞰め退き全図や、寄りの対応や切返し、部屋への出入りや寄る移動、室内の美術の映画の華美拒否、フォローで歩き来ての会話·カットの個人毎分割、ラストの知らぬ儘の偶然の母との遭遇と川と海が砂筋を挟み隣接したような不思議な空間と切返し·思わぬアップの組立、全てのカットが、均質に力を持って堅固·清廉に絡み·強度をより築き抜き、役割を分ける形も·その上の全体への理念を·直ぐにではなく彼方に共通して持っている形式。それでいてその体現の持ち主の各人の画面外の環境で、それを揺さぶり内から齟齬·対立もせざるを得ない、相手を潰しかねないも·ひたすら優しく誠実に、仮に隠すという形でも、心を開陳し合う、事実を曲げず何かに纏め上げだけはしない、表現とその対象のあり方。
 「何があろうと真実だけは互いに守り·示し合い、それをどこかに隠し置く事だけはすまい」「隠したり嘘をつくことも、単に真実を明らかにし合うことよりも、より大きな真実になるに、近づくことへも」精一杯に眞実一路を進み抜き、2つの大きな結論的姿勢が浮び上り、人間関係の断絶は生んでも決して対立するものでなく、根の線のひき方は同じで、現実を汲み入れての深度と柔度が違って平行線が提示される、劇の構造の進め方。
 下の子には死んだと、上の娘には傲慢で出ていったとされてた母が、不遇の子をはらみ·相手は愛してくれてるも·上からの配慮でしかない者=父と籍を入れた家庭へ。その欺瞞に我慢出来ずに下の子が生まれた時に出ていくも、上の自分のではない子まで引き取り·渡さず、育てた、父の矜持·家に負い目を持たせぬ生き方。隠し置いたそれの、決断した叔父からの、娘への教え(その辺を先に知り、娘は知ってたものと、破談にした、心が一体だった婚約者のことも分かってくる)。1人、事実·真実を知らぬ(が、無形に歪みを受けながらも、無垢の力で伸びて来た)下の子のあどけない力への、偶然会った母の笑みと動揺から、何かが転がり始める。
 世界と表現への誠実さが、どちらかがリードすることなく、極めて高次レベルで均衡を作りながら求め合ってく瞬間瞬間が現れてくを、共有し取り込めてゆく。緊張·密度と、高邁な確信の核の存在を、触りこちらに増殖出来てゆく。(この後の、戦後のスポンサード映画の『ぼくら~』も、鋭さこそないが、学級の装備充実を託された委員が、図書の充実による実用と心の進歩を集中的に目指し、物量·貸出システムを整え、それを更に補完するものとして、僻地や希望品の叶えに適した巡回図書バスや、米国からの施設で本に限らない文化を揃え提供する団体に迄、届くを平明なタッチで、紹介を超えて方向づけを示唆する作で、真の意味で同じく教育的。『長崎~』でのあからさまな反米·米からの被爆者への謝罪導きの、引換作にも見える。)田坂·成瀬共に、世界映画史上の最高峰に位置してる事は、間違いない。ルビッチやドライヤー、ドヴジェンコと同列を与えられさえすれ、劣る事はないと思う。その最高作は、彼らと同じく、世界映画史上のベストテンに伍するものだ。そんな田坂の傑作を羅列する中に『真実~』は入るに留まらず最上位に近い、と思われる。『爆音』『はだかっ子』『真実一路』『月よりの使者』『ちいさこべ』『路傍の石』『長崎の歌は忘れじ』『鮫』『湖の琴』『土と兵隊』(10本目としては、『~坂道』『海軍』『五人~』『~おさん~』、或いは遺作でも、置換え可能。)
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