Song of the South: Duane Allman and the Birth of the Allman Brothers Band(原題)を配信している動画配信サービス

『Song of the South: Duane Allman and the Birth of the Allman Brothers Band(原題)』の
動画配信サービス情報をご紹介!視聴する方法はある?

Song of the South: Duane Allman and the Birth of the Allman Brothers Band(原題)

Song of the South: Duane Allman and the Birth of the Allman Brothers Band(原題)が配信されているサービス一覧

『Song of the South: Duane Allman and the Birth of the Allman Brothers Band(原題)』が配信されているサービスは見つかりませんでした。

Song of the South: Duane Allman and the Birth of the Allman Brothers Band(原題)が配信されていないサービス一覧

Prime Video
U-NEXT
DMM TV
Rakuten TV
FOD
TELASA
Lemino
ABEMA
dアニメストア
Hulu
Netflix
JAIHO
ザ・シネマメンバーズ
WOWOWオンデマンド
アニメタイムズ
Roadstead
J:COM STREAM

『Song of the South: Duane Allman and the Birth of the Allman Brothers Band(原題)』に投稿された感想・評価

この2時間以上という長時間のドキュメンタリーをここに書き記すのはすごく長くなると思う。しかし、私のようなオールマンブラザーズバンドファンでも、この映画は初めてみた。
『1991年にオールマン・ブラザーズ・バンドとして初来日公演が実現』と書いてあったが,全く知らなかった。グレッグオールマンの娘、レイラが『お父さんが日本に行ったことがあるって言ってたよ』と言ってたので、その時、そうかと思った。全く知らなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=Vv60Dz9hUPo これも最高!


The Bandもそうだが米国サウスのロックには日本のプロモーターは興味がなかったようで、私は日本でThe Bandとオールマンのコンサートに行ったことがなかった。

下記の1969年から73年あたりまでで、The Band と同様に、この頃のサウスのロックに痺れていた。しかし、ネットの時代ではなかったのでこのドキュメンタリーのような情報がなかった。
1969年 オールマン・ブラザーズ・バンド - The Allman Brothers Band (Capricorn)
1970年 アイドルワイルド・サウス - Idlewild South (Capricorn)
1971年 フィルモア・イースト・ライヴ - At Fillmore East (Capricorn)
1972年 イート・ア・ピーチ - Eat A Peach (Capricorn)
1973年 ブラザーズ&シスターズ - Brothers And Sisters (Capricorn)

このドキュメンタリーは私の疑問のいくつかを解決してくれた。
1)なぜ、ジョージア州のメイコンにスタジオを?
2)デュアン・オールマンの性格や人柄や実力などなど、デュアンのこと。

エルビスなどの白人のロックンロールは1954年ごろ始まったが、その後、ボブ・ディラン、たちの反戦で、フォークの世界になり、南部のロックは取り残されていったと。それに、英国のビートルズ、ストーンズの人気でより取り残されて、南部の白人ロック演奏家は機会を失い、誇りも失ったと。
この時代、フロリダのデイトナで、チャック・ベリー、BBキング、などの黒人のブルースは活動していた。デュアン・オールマンは白人、黒人などの人種や言語などを視野に入れず、『実力のみ』でバンドを作っていた。1961年ごろジムクロー法の中、特に南部からだから、デュアンのような『実力』を大事にする人は珍しかったようだ。 ここで、デュアンの偉大さを改めて、感じとれた。私は以前から、リーダーであるデュアン・オールマンはユニークな人、他の人とは違うとずうっと思っていた。
1963年ごろ:
リズムアンドブルースやブルース、ボビー・ブラウン、マービン・ゲイ、モータウンのカバーバンドをしていて、ビーチボーイの前座をした。私の馴染みのない曲がかなりあるので載せておく。

The Escorts
https://www.youtube.com/watch?v=8etUaa15iGQ. レイチャールスのカバー What'd I Say (Ray Charles Cover )

The Allman Joys
https://www.youtube.com/watch?v=IUoR3Ouzsuo  1966年 Pensacola Beach 1966
Help

デュアンはギターを弾くか読書かで,ギターを持ってなかったら読書という人。学歴はないが、勉強家で単語力も高く、的確な語彙を使うと。

The HourGlass
ロスに行ったが、当時のロスはフランクザッパやドアーズやグレイトフル・デッドなどの時代で、リバティレコードと契約したが、南部のロックバンドは理解されなかった。レコード会社はブラックのブルースベースやモータウンのリズムをを期待していた。デッドやジェファーソソン・エアプレインなどの前座をしていた。ハリウッドでのデビュー曲は 『Out Of The Night』だが、デュアンはデイトナに戻ってしまった。デュアンは自分中心な人で、自分のやり方でやる。それがベストだったと。
The HourGlass
https://www.youtube.com/watch?v=OpTquoCGsrc. Out Of The Night

デュアンは タジ・マハールのバンドのジェシー・デイビス(Taj Mahal with Jesse Ed Davis)のスライド・ギターに惚れ込んだ。ジェシーの影響を受けているねえ。(ジェシーのインタビューhttps://www.youtube.com/watch?v=tHyC9qldYb4)

デュアンは一度音を聞くと覚えているという特別な才能があったようだ。それに、即興で弾くので、楽譜を見て覚えて弾く才能とは全く別の才能を持ち合わせているようだ。ギターを左で持って右で弾いているので、数多くのギタリストと同じである。しかし、左手で書いているのを見たので、クリエイティブの才能があるんだな。だから、即興が強いねえと思った。私は楽器ができないから専門的なことはわからないが、1971年のフィルモアイーストを聞けばよくわかる。特にウィピイング・ポストなどはリードギターの即興あり、このコンサートでしか聞けない、実力が伺える。
https://www.youtube.com/watch?v=H0T4JDLN5mI 71年ニューヨークフィルモア

The Hourglass
https://www.youtube.com/watch?v=s-vfxwOsRck&t=103s Power Of Love 1968年、成功しなかった。
https://www.youtube.com/watch?v=g4l5eCgdf20. I Can Stand Alone

Sweet Little Angel (B・B・KING のカバー)
https://www.youtube.com/watch?v=LkWVdL3WxOA
これも、こりゃダメだと拒否されたらしい。これこそ、オールマンの味が出ているのに。

1968年ロスをさり、フロリダに戻って、ウィルソン・ピケットに『ヘイジュード』を演奏としろと。ビートルの曲で、すでに(もう)ヒットチャートに載っていた。当時はロングヘアーは問題で黒人より問題だとされたと。

Wilson Pickett & Duane Allman - Hey Jude (Beatles cover)
https://www.youtube.com/watch?v=6AEg_scw0Eo

このようなギター・ソロを聞いたことがないと言われここからデュアンは注目された。 フィル・ウォーレン(Phil Walden オーティス・レディングの死後、マネージャー、フィルは目的を失っていたが、)デュアンの演奏を聞いた。初めてこれを聞いて、サインをした。デュアンは歌手じゃないし、作曲もしないし、主に、カバーバンドで、ギターを弾くのみだが、ここで才能を発見された。
これがキャプリーコーンレコードの始まり。 デュアンは 『FAME』で機械のように扱われるのに嫌気が差していた。

1970年のデュアンは物はなし、生活なし、ギターを弾くのみだったが、他のミュージシャンはすでに結婚して、生活を持っていたから、デュアンの自発的な発想にはついていけなかったようだ。
デュアンは、セッションミュージシャンだが、スタジオでレコードを作るタイプじゃなかったと。
Duane Allman (With Clarence Carter)
The Road Of Love
https://www.youtube.com/watch?v=92zb01jIe

King Curtis · Duane Allman
The Weight ·
https://www.youtube.com/watch?v=y8HK0-HAA2g

1969年 1月 ジェリー(Jerry Wexler)と フィルはFAMEでソロを出させたかった。フィルは個人的な目的があり、故郷のジョージア州のメイコン(Macon)にスタジオを作りたかった。
そこに、すでに、ドラマージェイモーを連れてきた。彼はオーティス・レディイングのツアードラマー(1966)だった。デュアンはベリー・オークレを呼び寄せた。シンガーが必要だけど、デュアンは自分がボーカルする気はなかった。こういうのをつまらないと思っていたらしいと。

Goin' Down Slow - Duane Allmanが歌ってる。
https://www.youtube.com/watch?v=QkFOBZRAbMU

ベリー・オークレ、デッキー・ベッツ、ジェイモー、ブッチ・トラック、リース・ワイナンス(オルガン)、数日後、グレッグが戻ってきた。ミュジカルファミリーをここで築いた。 家庭というところで育っていないデュアンにとって、これは人種などを超えた音楽を通してのブラザーフッドだったと。 2リードギター 2ドラムという当時珍しかった構成で。 ファースト・アルバム『The Allman Brothers Band』、2作目『Idlewild South』をリリース(トム・ダウドのプロデュース)するが、注目を浴びなかったと初めて知った。私は、特に一作目が大好きで、何度も聞いていた。

メイコンのカレッジストリートに住んでいて、グレッグ、デュアン、ベリーの三人はVineville Ave.の三階建のビッグハウス(Big House )の引っ越した。 お互いに助け合って兄弟のように過ごした。

プロモーター、ビル・グラハムの力でフィルモア・イースト(ニューヨーク)で演奏し、USや国際的に大人気になった。1971年のライヴ盤『At Fillmore East』でもっと人気を博した。アルバム2枚しか出していないのに、ライブ盤を、ましてや2枚組なんて想像できなかったらしい。しかし、私にとって、だれのライブ盤より、これがベスト。即興演奏がすごいよ。

1970年プレイセッション アレサ・フランクリン
エリック・クラプトンとデレク・ドミノスと共演をする レイラ、Anyday
デュアンとクラプトンはお互いに尊敬しあっていた。それに、息があっていたらしい。

Derek and the Dominos - Anyday
https://www.youtube.com/watch?v=QrWK5XWuGpk

デュアンはオールマンブラザーズバンドのツアーに時々参加していないと。他のミュージシャンとセッションするのが好きで、優先していたようだ。

Duane Allman with Cowboy- "Please Be With Me" (1971)
https://www.youtube.com/watch?v=XY6SlJIk-7Q

彼はショー・マンじゃなかった。 デュアン、Duane(英語でデゥエイン)死後(1971年10月29日)、Eat A Peachをリリース(1972年2月)。これがトップチャートに。「リトル・マーサ」 、デュアンが作曲、はデュアンが生存中の録音だが、半分は残りのメンバーでと。30分以上ある「マウンテン・ジャム」はフィルモア・イーストでのライプ。個人的に、デッキー・ベッツの軽いタイプのカントリー、例えば、『ランブリンマン』はあまり好きじゃない。多分、1973年 にリリースされたSouthboundが入ってる『ブラザーズ&シスターズ 』を最後に、あまり聞かなくなった。
死後、デュアンのアンソロジーがリリース。 An Anthology (Duane Allman album) 彼はボズ・スギャッグスともセッションしていた。