otomisan

MEN 同じ顔の男たちのotomisanのレビュー・感想・評価

MEN 同じ顔の男たち(2022年製作の映画)
4.1
 ハーパーの身に起きている事に恐怖せよといわれても、第三者には先ず、事の発端であるジェームズとの別れ話の始まりが除られているようなところが不審だ。
 そこが監督の作為なのは承知だが、終わりのひとつ前で、死んだジェームズがハーパーの問う「私に何を求めるの」に「愛」と答える分かりやすさに保留していた恐怖が吹き飛んでしまう感じでもある。ハーパーもそんなもの端からない、あれは互いの勘違いなのだと告げていればよかったろう。しかし、もともとないものを問われもせずに答えようがあるまい。

 ではジェームズもなぜ「愛」を離婚への疑義の中心に据えなかったのか?それは結婚の前提として自明の事とこのときまでも信じようとしてしまったからだろうか?ただ、ジェームズの「愛」とは求めるだけのものなのか?求め得ぬことへの報復も「愛」に基づくと?恐喝で「愛」を引き戻せると死んだ今でも思うのか?
 「愛」との返事に応答しないハーパーがもはや、死をも覆すジェームズを恐れないのは、先に真実にたどり着いた者の優越感からである。ふたりとも互いに「愛」が欠けていながら、誓いのあのときはそれを信じずにいたのに違いない。類友を呼ぶ不幸を見つめる中で手遅れな和解の糸口が掴めればそれが生き延びたハーパーの救いであろうが、なぜかそれを信じることができない。

 そんなわけでハーパーもまた生きながら死んだも同然の人間である。そんな人間ハーパーがその夜、どんな妄執に取り付かれたか。ヒトの形ばかり持ちながらこころの中身は虚無同然の者"Greenman"、異様さにおいて均質な男たち3人、「適正な」法運用で出来上がった警吏、こんないつの時代にも必ず生じる彼等から促された反応が誰に対して何をしでかしたのか、相手が生きていればどんな証言をするだろう。ハーパーのそれとの食い違いが聞けるなら、それはもう一編の作品ができるほどのものに違いない。ただ、決定的な証言はもう一人、最後の死者を儲けるまで叶うまい。それは、男は皆同じ男に生れ付く、ならば、私を蔑ろにする次の男を産むかもしれないお前にも死を呉れてやろう。に違いない。この憶測を信じるかどうかは一種の踏み絵である。
otomisan

otomisan