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許されざる者のotomisanのレビュー・感想・評価

許されざる者(1959年製作の映画)
4.1
 映画の特徴は出来事の様相、その外貌を動かして見せて余計な想像を省いてくれるところにあるだろう。その分、そのような事件を被る、または推進させる人物の心中を推し量る、こころの働きを助長させるだろう。

 この物語では、オードリー・ヘプバーン扮するレイチェルが北米の先住民カイオア族に生れて、生後間もない頃に白人入植者との戦闘での大量殺人を免れ、襲撃者の一人、ザッカリー氏の養女とされるが、当初から白人家族の遺児として偽って扱われ、その嘘が十数年後、ザッカリー氏に遺恨のある告発者ケルシー氏の暴露にあい、家族内でも入植者集落内でも孤立してしまう様子が描かれる。
 ただ、その様子は敵対するケルシー氏とザッカリー家、あるいはケルシー氏にそそのかされたカイオア族と長年角逐を続けて来た白人たちの険悪な様相とを比べるとさほど重きを感じない。しかし、より重たく明示されるその二つの敵対関係以上に戦慄を覚えたのはザッカリー氏がレイチェルを引き取るに至った描かれることのない虐殺事件の方である。

 その虐殺事件は語られる言葉によれば、カイオア族から被った襲撃と虐殺に対する報復であって、そこでケルシー氏、ザッカリー氏ほか襲撃者は、殺せる限り殺した、と語られる。
 そんな事件の終結時、生後間もない一幼児にケルシー氏が最後に手を掛けようとしたところを、それを制したザッカリー氏は殺せる限りを尽くしもうこれ以上殺せないと悟ったらしい。
 そうして生き延びたのが今のレイチェルであり、ザッカリー氏が殺し得たのであろうが恐らく会合することなく殺し損なったその兄、十数年後ケルシー氏から、かの襲撃での事の真相を告げられ、妹で今は白人の娘と扱われているレイチェルを引き取ろうと試みる現カイオア族首領ロスト・バードである。
 このわだかまりに満ちた物語で我々がたどるべきはその時の描かれることのないザッカリー氏の心境、被った虐殺と報復戦での虐殺の果てに、もうこれ以上殺せないとして、その幼女を引き取り、亡くしたばかりの娘の代わりに育てようと決心したその心中であろう。辿って行き着けるわけもない事は未来とさして変わるまいが。

 それは良心と呼ぶべき事だったかもしれないが、未来を先どる事が出来ないように、その決心が十数年後あらためて不和を生み、また多くの死人が出る。そのときすでにザッカリー氏はこの世の人ではなく、あの虐殺と生まれて間もなかったレイチェルとに直接かかわった、ケルシー氏、ザッカリー氏の妻、現首領ロスト・バードも相次いで亡くなる。このあたかも事件当事者の全員死亡により旧弊が断たれたかのような物語の終わりがある種清々しいほどである。

 この世界では生き延びる者が正義を担わざるを得ないのかもしれない。現に生き延びた者が正義にふさわしいかどうかは分からないが、死に瀕し生き延びた事を発端として出来事を伝えて後世に評価を委ねる事は不思議と長く伝わる慣習のようだ。
 死者が語りつくして死に絶え、実の兄を殺したレイチェルが義理の兄ベンに嫁ぎ、不和と和解、相反する事を背負って生きるのを想像すると、この最後の衝突の初めに義兄ベンが告げた「銃に任せろ」との言葉が重たくしこる。最後の銃撃でロスト・バードを斃したレイチェルが構えた銃は紛れもなく実の兄を捉えていたが、あるいは撃ったのは銃であり自分ではなかったとこころの内に抵抗できるかもしれない。
 生きる事は選ぶ事であり、捨てる事は殺す事であり、殺して遺恨を断たねば事態はもう収束できず、実の兄を最後に、殺し尽くしてこれ以上殺せないと悟ったレイチェルもベンもやっと殺さずに済む時代を迎えるのだろう。
 その時代は法制度が事件の決着までに時間を作ってくれて、いのちの遣り取りという性急な収束を否定する。警察力が報復を未然に防ぎ法執行がそれに代わって裁きを加えてくれる。それで済むはずがなぜかそうでは収まらない何かを残す。
 この物語はそうした時代を迎えた世界にそれ以前の時代の空気を呼び込んで、今はどれほどましだろう、と問うようである。そして、レイチェルとベン、ロスト・バードの時代、さらに遡ったザッカリー氏とケルシー氏の描かれることのない苦悩の経験からやっとここまで来たのだと語り終える。しかし、この1960年が望ましい終着点にふさわしいのか、世間を見渡して問うべきところはたくさんあったはずだ。
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