「貧すれば鈍する」日本全体が。
現代の姥捨山。江戸時代と変わらない。
江戸時代なら飢饉で農民が子供を間引きし、借金で娘を売り、姥捨てしても仕方がない。
当時の国力・政治・行政力では、貧しい農民を救えなかった。
「あゝ無情」と嘆くしかない。
だがデフレ30年で貧しくなったとはいえ、仮にも経済大国世界3位の我が国が、なぜ江戸と変わらぬ姥捨体質なのか?
借金まみれで金がないという財務省の言い訳に洗脳され、政治家も国民も「貧すれば鈍している」のだ。
だから姥捨の発想しか生まれない。
成田悠輔の「高齢者は集団自決すべき」論が良い例だ。
金がないから碌な行政サービス出来ません、打ち切りです。
自己責任と自助努力でよろしく、というのが日本の姿勢だ。
障害者・痴呆老人・育児など、個人では抱えきれない。
核家族化が進み、昔に比べ家族の負担が大き過ぎる。
そもそも政治・行政・地域が担うべきだが、個人に押し付けてきた。
結局、政治と行政の怠慢なのである。金がないから出来ないは言い訳。
原作者も制作者も観客も、皆、洗脳されている。
金は生み出すものだよ。言い訳を許してはいけない。
「俺が老人殺したのは国が怠慢だから、総理と財務大臣は殺人看過罪、いや俺を殺人に追い込んだ罪で死刑!!」と訴えるべき。それなら面白かった。
あゝ無常と松山と長澤で泣き合うなんてアホみたいだ。
明石市は子育て支援を掲げた。初めは商売人も高齢者も反対した。
しかし支援されたファミリー層が買物を増やす経済効果で、商店街も潤い高齢者支援にもお金が回りだした。
結果、人気の街になり人口も増え増収した。
そもそも公共事業に無駄遣いしていた分を子育てに回しただけ、と明石市長は言う。
金を回しただけではなく、子育てで孤立する母親たちに子育て経験のある女性の宅配で無料オムツを配布。
子供の安全を確認する為に、オムツだったとのこと。
オムツならチェーンを外してドアを開ける。かさばって戸の隙間から渡すことは出来ないから。
それで室内状況や、虐待の有無もチェックしていたそうだ。
母親のメンタルケアも含めた出向型の福祉政策だ。
老人介護も同じであろう。
それが出来れば、本作のような事は概ね回避できる。
予算の少ない地方都市で出来たことが、日本全体で出来ないハズがない。やろうとしないだけだ。出来ないと思い込んでいるだけだ。
まして国債もある。コロナで国債が幾ら増えても、全然経済破綻しない。財務省は破綻妄想で洗脳している。マスコミも同じ。
コロナ時の使途不明金16兆を追求せず、金が無いと増税する。
その結果が成田悠輔。
国債の借金はダメで老人殺しは良いって、おかしな価値観になってないか?
なのに皆、仕方ないかな~って諦めてる。
日本全体の価値観が歪んでいる。
本質は高齢化社会の問題ではない。
政治・行政の怠慢の問題なのだ。取り違えてはいけない。
『PLAN75』もそうで、取り違えてるからそんな話になる。
姥捨の発想しか生まれないのは、その認識がズレてるから。
金がないと宣伝する財務省の罪深さよ。
政治家は国民側を向かず、票をくれる団体の利権しか考えない。医師会・経団連・労働組合・・・団体のためには仕事をするが、得のない国民のためには仕事をしない。市民サービスを怠っているだけの問題だ。
なのにボケ老人殺してOKしょ! って狂ってる。
結局、 江戸時代と同じ姥捨山という惨状だ。21世紀なのに。
出生数が80万を割った。
子供減らしという意味では、間引きと同じだ。
姥捨てだけでなく、子供の間引きもしていると言えよう。
日本は今も江戸時代なのだ。
それは、ひとえに政治と行政のせい。
磔獄門を申しつけてもいい。なぜか国民は怒らない。
やはり洗脳のせいか? 『チャージマン研!』のボルガ博士状態なのか?
その内、子供殺してOKっしょ? っていう価値観を植え付けられる。
「貧すれば鈍する」って本当だね。