1979年10月26日、大統領の朴正煕が暗殺されると、国軍保安司令官のチョン・ドゥグァン少将は暗殺事件の捜査本部長に任命され、逮捕した実行犯のKCIA部長キム・ドンギュを尋問し背後関係を厳しく追及していた。チョン・ドゥガンの主催する軍内部の私的組織“ハナ会”の跳梁を快く思わない参謀総長のチョン・サンホはチョン・ドゥガンと対立関係にあるイ・テシン少将を首都警備司令官に任命し、ハナ会の勢力拡大の抑止力とした。暗殺事件の現場に偶然居合わせていたチョン・サンホを除いて軍の実権を握りたいチョン・ドゥガンはチョン・サンホの身柄確保と大統領から逮捕の裁可を同時に得る計画を立てた。年末にチョン・ドゥグァンらハナ会メンバーを左遷する動きが参謀総長側にあることを察知したチョン・ドゥグァンは12月12日、計画を実行に移した・・・
全斗煥による粛軍クーデターの起きた12月12日に起きた出来事をフィクションを交えて描き出す、渾身の一作。
朴正煕の暗殺から粛軍クーデター、翌年の光州事件に至るまでの韓国の歴史は当時小学校の6年生だった私にも隣国で起きた恐るべき出来事の記憶として今でも生々しく思い出されるのですが、当事者としての韓国国民にとって、この一連の出来事は民主化前の悲痛な歴史として非常に大きなウェイトを占めていることは間違いありません。
暗殺事件を扱った『KCIA 南山の部長たち』、光州事件を扱った『タクシー運転手』、その後の民主化の劈頭となった『1987、ある闘いの真実』に至るまで、軍事独裁に対する強烈な怒りを描いた作品がひしめく中にあって、そのまさにど真ん中の本丸あたる粛軍クーデターを描いた本作が韓国で空前のヒットとなったということは至極当然のことだと思います。
登場人物の名前は現実の人物と非常に良く似ていますが、朴正煕だけが本名で、他の登場人物の名前は微妙に変えてある辺りが、今なおこの事件が単なる歴史として片付けるにはまだ早いという時代感覚なのかな、と思います。
中でもチョン・ドゥグァンの顔がはじめてUPで登場シーン、暗殺事件の中間発表の原稿を下読みする場面からの、全編に渡るいかにも悪党然とした描かれようは全斗煥がどれほど韓国で忌み嫌われているかが窺えて、なかなか興味深いものがあります。
チョン・ドゥグァン演じるファン・ジョンミンの喜々とした様子はこの稀代の悪党を演じることの意味を良く理解してのことだと感じます。
映画は一晩の出来事がメインといっても本編141分を要するなかなかの長尺で、クーデターの前段階から当日の出来事を分単位で追う展開は映画的起伏に富み、泣かせどころも心得た、いかにも韓国映画らしいつくり。
事の顛末は知っていても、その詳細まで承知していないと、それぞれの出来事の次に何が起きるのか分からない緊張感で一瞬たりとも気を抜くことができません。
この雰囲気は『日本のいちばん長い日』での宮城事件や玉音盤を巡る憲兵隊と皇宮警察とのやりとりなどが想起されますが、実際に各所で銃の発砲による本格的な戦闘に発展する展開は、やはり味方同士が敵対行為に至る悲劇性や戦闘に至る動機付けの非常に微妙な機微がそこかしこで描写されることで、このクーデターが所謂無血クーデターではなく流血により犠牲者が少なからず出ていることに衝撃を受けるのでした。
また映画的なエンタメの部分といえるかもしれませんが、ハナ会側にとってクーデターが必ずしも順調に進んでいないどころか、失敗の危機(のように見える?ところ)が何度も訪れるところなど、あと一歩、参謀本部側が上手く動いていれば、ハナ会側の企みを挫くことが出来たのではないか、という観客側に心情に沿う展開が各所にあることで更に物語に釘付けになってしまうのでした。
この中でも特に軍人としての信念と本分を全うしようとするイ・テシン少将のヒロイズムに心打たれてしまうのですが、世の中にありがちなこととして、肝心なときに姿をくらます国防部長官や、日和見な参謀本部次長など、組織上チョン・ドゥグァンを抑えることができる上官に頼りない人物が居るおかげでクーデターを抑えることが出来ない。
これは、映画とは別の歴史的事実として、当時の軍組織そのものが朴正煕の権力基盤の要であり、文民統制など機能していない行政機構の根本的な問題に帰結するのかな、と思います。
ハナ会のメンバーは、いわば朴正煕の元で軍内部でメンバーに優先的な地位の確保や保全を目的として集まっていることを考えれば、映画のような軍人のあるべき姿を具現化するような軍人(=非ハナ会メンバー)そのものが少数派だったことは明らかかと思います。
世界中の至る所で起きている軍主導の非民主的体制の類いは漏れなく軍の存在そのものが利権集団としての性質を持つ以上、その既得権を手放すことに反作用が起きることはむしろ人の世の中では当然の結果と言わなければならないでしょう。
だからこそ、シビリアンコントロールの確立は極めて重要になってくるわけですが、改めて言うまでもなく、この当時の韓国にそれを望むにはあまりにも早すぎた、というところに落ち着いてしまうのです。
満面の笑みを湛えて記念撮影に臨むチョン・ドゥグァンとハナ会のメンバーを観ながら、なんともやりきれない思いで劇場を後にする後味の悪さが、この映画の教訓とすべき最も肝要なところなのだと思います。
一方で、このような苦渋に満ちた時代を経て民主化を勝ち得た韓国が、この映画をエンタメとしても楽しめるようになっていることは、ある意味で大変喜ばしいことといえるのかな、と思うのです。