監督を大学での上映会にお招きして鑑賞。
人間を最小単位の先まで見据えることで浮き上がってくるあらゆる人間に通底する普遍的なものが、少女2人の出会いを通じて繊細に描かれている。しかし、この作品の2人の主人公であるみおなとひかるは、属している社会階層も、母親との関わり方も全く違うように一見すると感じられるが、構造を抽出すれば両者の家庭環境は不気味なほど似通っている。そしてこの異様な類似において、この作品は徹底的に女性的な作品であると言える。
上記にもあるように、母親との関わり方は一方で過保護であり、また一方では放任が過ぎるという、対極的な家族のあり方が提示されているが、この2つは不自由な地面へと縛り付ける鎖として言い換えることができる。もっといえば親という呪縛である。そして、両者の家庭では男性ないし男性が家庭内において持つ役職が全くと言っていいほど機能していない。ひかるの兄も、みおなの母の愛人も、外部から来て寄り添うように見えるこそすれ、その実なにかを彼女たちにしてあげているわけではない。ただ心配する(フリ)をし、また家庭の外へと帰っていく。この振る舞いは家庭から、果ては映画そのものから、男性を弾き出す。両家庭がシングルマザーである点も、注目すべきだろう。また、ひかるとみおなが出会うきっかけとなった不気味な男、映画的機能として使い捨てられる男性もまた、女性同士の関係性に終始するこの映画から男性性を排除する。
つまる話、この作品は数ある家族のあり方の1つ(突き詰めれば両者は毒親である)を基礎としながらも社会階級の違いを背景に移すことで幅広い層の獲得を可能にしている。しかしながらそこに、男が介在する余地はないように思われる。
ガールミーツガール、象徴としての飛び立つ飛行機、小さな共犯関係。映画として面白く観ることはできたが、登場人物の誰にも共感をすることはできなかった。その理由を考え、自分なりの諸々の整理をしていく中で、自分は男性として、この映画からは隔絶されていることを認識し、納得すると同時に、少し寂しくなる。
しかしながら、この視座には、社会を、そして家庭を静かに見据える監督の視線が確実にあり、自分は傍観者としてそれらを見つめる監督を見ることになる。この時、私の他者性は浮き彫りになり、この作品は映像として映画、類を見ないほどに映画然として目の前に存在する。この映画を映画としての映画、として観ることができるのは、ある意味で特権的であるように感じる。