八月は、いわゆる「八月ジャーナリズム」に乗っかる形で日本の「戦争映画」あるいは「反戦映画」を選んで観ている。
戦中派の監督たちには当時の「現代劇」の中にも「戦争の傷跡」のようなものが刻印されている凄みを感じる作品が多い。ましてや「戦争」そのものを描こうした作品にもまた同様のその時代を生きた凄みを感じる。
それに対して、戦後生まれの作品はどこかその「感覚」を感じられるものが少なく感じて敬遠してきた部分がある。
本作の監督である五十嵐匠監督も戦後生まれだ。
そして「沖縄戦」を主軸とした、当時の沖縄県知事である島田叡(萩原聖人)と、警察部長である荒井退造(村上淳)や、周囲の人々を通して描いている。
「戦争」を扱った映画を好んで観ることは、自分の中にどこか「悲劇性」や戦争そのものが持つ「スペクタクル」あるいは「残虐性」を自覚しながら、あるいは突きつけられながらの「罪悪感」を感じながら観てしまうところがある。
自分の中の「戦争」をエンターテイメントとして消費してしまいがちな気持ちを自覚しながら観る。
それを踏まえてのことになるが、本作は「映画」としての凄みが希薄に感じてしまう。
先に述べた「戦後生まれ」というのが影響するのか、しないのかは判別できないが、予算や製作規模も関係するのは承知の上で、簡単に言えば引き込まれない。
もっとはっきりとざっくり言えば「面白くない」。
監督の弁によれば「島田さん、荒井さんの偉人伝を作るつもりは全くない」「鉄の暴風の中、極限状態の沖縄戦で人間は他人を思うことができるかというのがこの映画製作の最大のテーマである」ということらしい。
しかし蓋を開けて見れば、作品の印象は島田叡や荒井退造の再現ドラマのような趣きが強い。
もちろん、その周囲の人々特に凛(吉岡里帆)や由紀(池間夏海)の姉妹の物語も導入されるのだが、軍国主義者を内面化した凛のキャラクターと対比的に「アメリカ」の文化に憧れる由紀とが描かれるが、演者の力量も込みで物足りなく感じる。
島田叡や荒井退造のキャラクター自体も、密かに「敵性語」を使い現代的な価値観を忍ばされるエピソードもリアリティを削いでいるように感じる。
実際に交わされたエピソードとは思い難いのもあるが、物語はなるたけ当時の空気感を感じたいと思ったりする。
また、個人的に一番残念に感じるのは、ラストで生き延びた凛の現在の姿(香川京子)で島田や県職員の慰霊碑である「島守の塔」を訪れるシーン。
その戦禍を生き延びたという事実は感動的なものであることに違いはないのだが、別れのシーンで手渡された粉ミルクの缶を慰霊碑に置くということも含めて「型にハマった」シーンになってしまった印象。
且つラストショットでは、若き日の凛が沖縄民謡に合わせて踊るという姿まで映し出されるが、既視感の強い描写で脱力してしまう。
恐らくこれまでも繰り返し書き続けてきたことかもしれないが、歴史の記憶の「風化」、特に「負の歴史」については、繰り返し語り続けなければいけないというのは僕も同じ立場ではある。
そういう意味での「意義」の深さは理解しているつもりなのだが、その「風化」に対して、語り口がこれまでの「反戦映画」(と一概には言えないが…)にあまりにも似通ってしまうと、余計に「歴史の遺物」の化してしまうことに危惧を覚えてしまう。
ただ。できるだけ前向きに捉えるとすれば、実際に何があったかをシンプルに伝えることとして、当時の戦況や、沖縄の状況を時系列に沿って分かりやすく伝えてはいる構成になっているとは思う。
また歴史的には悪名高い牛島中将(榎木孝明)の存在や、そもそもが「捨て石」として切り捨てられた沖縄の姿、そして戦闘が激化し敗退していく中で、孤立し、同胞のはずの「日本軍」が守るべき住民たちすら殺害していく様、負傷兵を見捨てる様、米兵たちも容赦なく市民をも殺害していく様などは、描かれるだけで胸に迫るものがある。
現実の沖縄戦においては、アメリカ軍に投降すれば、命が助かったという安易なものでは当然ないので、その辺りはとても気になってしまったというのはある。
知れば知るほど、あまりにも救いようのない戦闘であることは事実であるからこそ、あまり「ヒューマンドラマ」として描いて欲しくなったという気持ちは強い。