終末の刻はこんなにもさりげなく
やって来るのかも知れない。
そう、扉をノックするかの如く
さりげなく。
なんて考えていたが、我々日本人が捉える"knock"と欧米人が捉える"knock"では、意味合いが異なるようで。
日本人にとってのそれは、行儀の良いマナーのようなものだが、欧米人のそれは、激しくドアを叩くイメージだそうな。
"knock out"なんて、相手を叩きのめす言葉にも使われるし。
森の奥の小屋でバカンスを過ごすゲイ夫婦のエリックとアンドリューと養子のウェンの元にカルト的な信仰者である4人組が訪れる。彼らはエリックとアンドリューを拘束し、彼らが見た"ヴィジョン"について語り始める—— 。
世界の終末を止める為に、エリック、アンドリュー、ウェンの3人から犠牲者を選べと迫る4人組。もし犠牲者を出す事を拒むなら、4人の内1人ずつを殺していくと。
うん、堪ったもんじゃねぇな。
家族3人で平穏に過ごしている所に押しかけてきたヤバい奴ら。その内の1人がデイヴ・バウティスタだもん。もう見た目が脅迫じゃんよ。「ハリー・ポッター」シリーズのロンことルパート・グリントもいるよ。
世界を救う為、自分達家族の誰かを殺せだなんて酷な話だ。
彼らが拒めば拒む程、嘘か真か、大地震や津波が起き、飛行機が次々と墜落していく。そして、"ビジョン"の通り1人ずつ死んでいく訪問者。
カオス!!
KHAOS!!
以下ネタバレ含みます。
どんでん返しの王様、M・ナイト・シャマラン監督なのに、どんでん返さない!!最近、どんでん返さないなぁ〜、この人。
しかし調べてみると、共同執筆の脚本家と相談の上、原作の小説版と幾つかの変更を加えて結末が違うんだそうな。そんなとこでどんでん返していたか!!
映画版→ エリックが自ら犠牲になることを選ぶ。
小説版→ エリックが自ら犠牲になることを望むものの、アンドリューと話し合い、犠牲者を出さない事を決める。
つまり映画版では、カルト思想に屈服した夫婦を描き、小説版ではカルト思想を拒否し、人間の思想の自由に希望を見出すラストになっている、と。
これじゃ、映画版と小説版とでは打ち出すメッセージがまるっきり変わってくる。
原作小説を読んでいないから、どちらが良いかはわからない。そして、映画しか観ていないから、結局どんでん返さないではないかと思ってしまう。
この世界で起きている、あらゆる戦争の多くは、目の前にいる愛すべき人を犠牲に差し出すべきか、もしくは世界中のすべての人を危機に晒すか。その選択の中で起きているのかも知れない。
それを学ばせてもらえただけでも、この作品に価値はあるのかも知れない。
いつだって、選択を迫られ、時間はないのだ。
そんな事をぼんやりと考えた。
それでも、近年のシャマランはどうも冴えない気がしている。