bluetokyo

いつか、いつも……いつまでも。のbluetokyoのレビュー・感想・評価

4.0
えええ、なんでこんなに点が低いんだろう。宣伝の仕方が間違っているのでは、と思ってしまう。

たとえば、関口亜子は、メンヘラ、こじらせ、ではなくて、どう見ても、発達障害、アダルトチルドレンだよな。医者からもらった薬を満足に服用することすら出来なんだから。
そのように見ると、超ど天然、裏表まったくなし、誰にでもタメ口、思ったことをそのままダイレクトに言葉にしたり行動に移したり、というのも理解できる。
歯医者を異常に怖がったり、膝ぐらいの深さしかない池で溺れたり、平気で酔っ払ってゲロしたり、牛乳吹いたり、行動がみな子どもなのだ。
そういう人が社会に出てしまうと、どうなるのだろう。
たしか、俊英に、話があるんだけど、と切り出されたとき、ぎゃー、とか言って、俊英にしがみついた。おそらく、バイトとかやっているときに、あまりに社会への適応性がないので、そんな風に店長に呼び出されてクビを宣告され続けてきたのだ。それが、心の傷になってPTSDを発症している。まあ、トラウマなわけである。
さらに、その結果、強度の不眠症になってしまっている。

一方の市川俊英はどういう人物だろう。自分の感情を押し殺し、鉄面皮、鉄仮面を被ったような、ロボット人間だったのだろう。亜子の素っ頓狂な行動で、感情がほぐれたときに、看護婦たちのひそひそ話に、ぬっと口を出す。ぼくにだって感情はあるんです、みたいなことを言うのだ。とすると、亜子が登場する以前は、表情一つ変えず、抑揚のない、表現の乏しい、言葉の少ない人間だったのだ。間違いなく、そういう役作りで高杉真宙さんは演じているはずだ。
なぜ、そんな人間になってしまったのだろう。おそらく、傷付きやすい性格だからだろう。ナイーブなのだ。で、自分を守るためにまごまごしていると言い負かされてしまう。言い負かされて相手の思い通りになったあとで、くっそー、と根に持ってしまうのだ。

このように、関口亜子と市川俊英は、変わり者同士なのだが、決定的に違うことがある。社会の中に場所があるかどうか、ということだ。市川俊英は、開業医の医師である。ちゃんと仕事を持っていて、しかも、本人もかなりやりがいを感じて、医師という仕事をやっているのだ。
関口亜子は、いちおう、絵がうまくて、マンガ家を目指しているのだが、プロではない。

それで、話しは遡るが、市川俊英は、2年前、ある女性の写真を見て一目ぼれしてしまう。彼女の勤め先まで行ってしまう。もちろん、鉄仮面を被っているので、建物を見るだけ、会ったりは出来ない。その彼女というのが、関口亜子の双子の妹、滝川さこ(電話でそう呼んでいた。たぶん、漢字だと滝川紗子ではないかと思う)

家の近くに滝川紗子によく似た関口亜子がいたものだから、あわてものの叔母さんが市川家に入れてしまった。2年間も片思いだった市川俊英は、当の本人が来たと思い込んで、びびりまっくて、手を洗うとき、震えて、びしゃびしゃになってしまう。

時間が経つに従い、関口亜子が、超ど天然で、社会性がまったくないことに気付いた。そうなると、社会に対して鉄壁の鎧を身に付けている市川俊英は、上から目線になる。
ところが、さらに時間が経つと、がちがちに固めた鎧の中身は、空っぽで、ただの寂しい人間でしかないことに気付き、逆に、社会の中では無防備な関口亜子が、絵がうまいし、料理もうまくて、人の機微もよくわかって、つまり、温かい内面を持っていることにも気付くのである。

この話って、そう、「耳をすませば」、なんだよなあ(実写版は見ないけど)。

天沢聖司が図書カードの名前だけの恋人、月島雫の実物に出会ったら、志の低い、ただの本好きメンヘラでしかなかったので、コンクリートロード、とか、お前のべんとう、ずいぶんとでかいんだなー、あははは、とか言って、いじめるわけだ。
月島雫は、やなヤツ、やなヤツ、やなヤツ、といって怒ってしまう。
ところが、天沢聖司、オレはプロのヴァイオリン職人になるんだ、としゃにむに突き進んでいくうちに、中身が擦り切れて、スカスカになってしまっていることに気付く。月島雫は、豊かな内面を持っているわけだ。
月島雫は、受験に直面して、いままで社会について考えもしなかったことを実感する。それで、プロを目指す天沢聖司が眩しく見える。

話が逸れてしまったけど、この映画の最後は、関口亜子と市川俊英が結ばれて、本当によかったなあ、ほっとしたよ、という気持ちにさせてくれる。
お互いにないものが、それぞれ、お互いが持っているのだもの。
そういったことをこの映画は、丁寧に描いていくのでわかやすい。
結ばれるべくして結ばれる、そういう二人なのだな。
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