レッドアップル

ブロンドのレッドアップルのネタバレレビュー・内容・結末

ブロンド(2022年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

劇中のモンローの『ローズマリーの赤ちゃん』的錯乱が、そのまま映画自体の史実を無視した演出の錯乱と共鳴しているように思えた。きっと、彼女がブロンドを偽ったように、本作『ブロンド』もまた何かを偽っている。自覚的に。自覚的に、人々が想像する様々な”マリリン・モンロー的”な何かを仮構し創造している。そういう意味において映画的。映画とはアメリカ映画のことである。

伝記映画において(というか映画において)、登場する人や物に何らかの意味や象徴を反映させてしまう習性は、作家にも観客にもある。なぜなら映画の形式は、そこにないはずの”関係”を浮かび上がらせるという禍々しい欠陥=魅力から逃れられないからだ。現に我々はモンローのモノマネをするアナ・デ・アルマスをモンローとみなしてしまっているし、それに、モンローが志向したメソッド演技に、まさにその最たる例を見ることができる。不幸な大衆が生んだ欲望の集積、それがポップアイコンというもの。たかが映画じゃないか。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』では、マンソン事件の被害者という象徴をシャロン・テートから剥ぎとるために史実を改変したが、本作は逆に、意図的に仮構された様々な象徴をモンローに着せるために史実を改変している。その上で、ケネディとの場面では「それを見るお前ら」という旧劇エヴァ的な展開にも踏み込み、仮構された象徴の投影(それが聖母的な救済の象徴であれ、性的な意味の象徴であれ、同じ構造の下にある象徴の投影)をやめない私たち観客を揶揄する。

ドミニク曰く、父親の不在を物語の軸に置くことによって彼女のキャラクターを未熟な子供として造形したらしい。これはかなりフロイト的な発想である(本人もそう言ってる)。それはつまりハリウッド的ということでもあるわけだが、本作の場合、それさえも彼の意図的な態度表明に見えてしまう。
ドミニクが本作でやったことは、かつてウォーホルがモンローの絵を作ったときと同じ戦略に基づくことだったのではないか。資本主義体制のインサイドでウォーホルが暴れたように、ハリウッドの映画体制のインサイドでドミニクが暴れている。
そういう意味で、この映画はアンディ・ウォーホル=アンドリュー・ドミニク=マリリン・モンロー的映画なのではないか。わかんないけど。