くまちゃん

Dr.コトー診療所のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

Dr.コトー診療所(2022年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

山田貴敏の原作漫画を実写化し2003年より放送されたTVドラマ。
吉岡秀隆が「北の国から」のイメージを脱却し、吉岡にとって新たな代表作であり代名詞となった作品である。
自身の作品がここまで育つとは山田貴敏も想像しなかっただろう。

今作は16年ぶりの映像化で初の劇場版である。

時間が経てばみんな歳をとる。
吉岡秀隆など頭髪が真っ白ではないか。

物語の設定上規模を拡大しづらく、どうしてもTVドラマのレベルを脱することは難しいように思う。
ただ一つひとつの何気ない場面が、コトーの「急性骨髄性白血病」へ帰着させるのは上手い。

神木隆之介、蒼井優、堺雅人の出演は必ずしも必要とは言えず、ファンサービスの域を出ない。

白血病が発覚したコトーは、自分が島を離れる訳にはいかないと言う。
志木那島に医師は自分一人なのだから。
決して彩佳やまだ見ぬ我が子を蔑ろにしているわけではない。コトー自身、妻を愛し、その出産を心待ちにしていた。
それでも医師として活動しようというのは彼が自暴自棄だからであり、現実逃避なのである。

死ぬにはまだ早い。
死にたくない。

だからこそ障害の残る義母昌代の「生きて」という言葉は心の奥深くを融解する。昌代は脳出血で後遺症が残りながらも懸命なリハビリで今も生きている。

剛洋は学力が追いつかず、医療事務でとある事件の重要参考人となっていた。
人手が足りず、医師でも看護師でもない自分は何もできない。
結果、患者は死んだ。
コトーに憧れ、父に応援され、医師を志した優しい青年はさぞ思い詰めたであろう。
そんな剛洋にコトーは伝える。
「医者ではないから救えないと思ったのなら君は医者にならなくてよかった」
医師は命に責任を持ち、救えなかったものとその遺族へ言い訳ができない。
今ならまだ引き返せる。
人を助ける者として一番大切な優しさを剛洋は持っている。それが余計に剛洋を苦しめる。
コトーの言葉は優しくも厳しい。

志木那島を嵐が襲う。
矢のように穿つ雨、暴れ馬のように激しい風、天変地異の前触れかのような高波。
判斗と那美は診療所で待機する。
だが誰かが現場に行かなければならない。被害状況の確認と怪我人の救助をするためだ。
診療所へ駆けつけたコトーと彩佳を判斗と那美は制止する。
重病人と妊婦に負担をかけるわけにはいかない。
取り残された二人。
特にコトーの背中は自身の不甲斐なさを物語る。
それはかつて剛洋に対し伝えた言葉が自分に戻ってきたかのようだ。
医者なのに何も出来ない。
病人だから何も出来ない…

一方剛洋は邦夫に声をかけられ島民と協力しながら救助活動を行っていた。
医師を諦め、医療現場の実態を知り、心を痛めた剛洋は医療とは別の形で人々を救う。自分にできることはまだあると前を向き始める。

やがて診療所には多くの怪我人が運び込まれる。
コトー、彩佳、那美、判斗、4名の医療従事者では手が回らない。それは誰の目にも明らかであり崩壊寸前である。
それでも運び込まれる患者。終わりの見えない絶望。それは命をコマとした地獄のテトリス。
決して無医村の離島に限った話ではない。コロナで逼迫した医療を我々は体験したばかりだ。
さらに判斗の言う通り無医村は綱渡りであり、医者一人に対し行政も含め島全体が頼り切ってしまう。
周囲からすれば頼りになる相手がいることは心の支えになるだろう。
しかし当人にすれば代替できない、多くの生命を一人で預かっている重責、自身の命を削ってでも現場に出ようとする責任感が病魔をすくすくと育ててしまった。コトーの病気はある意味必然と言えるだろう。
これは全ての医療現場、もしくは過酷な現状にも関わらず退職願を破り捨てるブラック企業にも通じる。

さらに美登里や重雄といった老人の自由な行動によって医療はさらに追い詰められる。
災害時に野暮用や救助にでかけた老人が被災することは実際の現場でもよくあることだ。
不安と焦燥、痛みと寒さで混沌とする診療所内でコトーは言う。
「必ずみんな助ける」と。
判斗は無理だとつぶやく。
周囲に聞こえるくらい大きな声で。
自身の弱音を聞いてほしいとでも言わんばかりだ。一番辛いのは被災者のはずなのに。
判斗の言葉に誰も反論しないのはそれが現実論であり、コトーの言葉は理想論でしかないことを周囲もわかっていたからだろう。
だが今、この場では、コトーの言う理想にどれだけの人間が救われただろうか。
コトーは自身ではなく、患者の心を救う、もしくは一時でも現実を逃避させるために理想を口にしたのではないか。
コトーは手を止めない。
救えないのは結果論。自分の技量不足。
この場で全ての命を救う覚悟がないものは医者になるなと判斗に突きつけているかのような医師としての夥しい矜持。

喧騒のさなか、運び込まれたノブおじの呼吸が止まる。
必死の心肺蘇生。こんな見送り方はしたくない。コトーは文字通り身を削り、倒れた。
彩佳は陣痛で身動きが取れない。
判斗は代わりにノブおじの心臓を圧迫し続けるが回復の兆しがない。

やがて判斗は匙を投げ、意を決して剛洋が代わる。
医師ではない。それでも心臓マッサージを繰り返し、ノブおじの蘇生を成功させる。剛洋は医者になる決意を新たに固め、足を踏み出す。

その間、倒れたコトーを周囲は見下ろすばかりで駆け寄るものがいないのはなぜなのか?不自然さが残る。

意識を取り戻したコトーは、ノブおじの状態を確認し美登里の手術を行う。
朦朧としながらも的確な指示と手捌きで要領よく作業を進める。

術後。嵐は過ぎ去り、先程の慌ただしさが嘘のように穏やかな朝を迎える。
手術室から帰還したコトーに対し島民から歓声と拍手が沸き起こる。
コトーは宣言通り全ての命を漏らすこと無く救ったのである。
その背中はあまりにも大きく偉大だった。判斗は己の未熟さを噛みしめ、敬意を表するかのように深く頭を垂れる。

優しさだけでは人は救えず、技術だけでは信頼を得られない。
誰よりも優しい剛洋とリアリストで技術のある判斗。
コトーを分けたような二人。
彼らこそが志木那島におけるコトーの後継者に相応しいのかもしれない。

今作では過疎高齢化の進む地域や無医村の離島、人材不足など医療業界への問題提示がなされている。
判斗の発言は現実である。
それにも関わらず全員救って自身は尽き果てる自己犠牲的な展開はヒーロー映画のそれであり「Dr.コトー診療所」のもつ写実的な趣向が希薄に感じる。
問題を投げかけた結果、そのアンサーがなされていない。
なんのための行政か。
役所の提案通り周辺の診療所を統廃合し新たな医療機関が完成したような描写がある。
しかし志木那島の逼迫した状態は変わっていない。
他にも同じ状態の地域があるはずだ。
できれば作品内で何かしらの答えを示してほしかった。

ベッドで横たわる彩佳の側で尽き果てるコトー。
ラストカットで我が子を抱きかかえるコトー。
どちらも後光が差し、死と生を象徴する宗教画的な情緒があり美しい。
コトーは死んだのだろうか。ラストのシーンは夢なのか。
それは問題ではない。
コトーの救ってきた命の連鎖がここに終幕する。
ただ、それだけなのだ。
くまちゃん

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