プリオ

Pearl パールのプリオのレビュー・感想・評価

Pearl パール(2022年製作の映画)
5.0
「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメで、夢溢れる少女が挫折し絶望するときに生じるエネルギーをエサとする化け物が出てくるんだが、今作はまさにその化け物が喜びそうな映画である。

ただ正直なところ、その化け物は僕も飼っていて、人が現実とたたかうものの夢破れてしまう瞬間にカタルシスを覚えてしまう部分がある。実際、「ジョーカー」や「ダンサーインザダーク」、「嫌われ松子の一生」など、悲劇的な映画が大好物なわけだし、その希望から絶望の落差が激しい程に興奮してしまうことも、大っぴらには言いにくいことではあるが事実だと思う。

でも最近はそんな自分に罪悪感や嫌悪感を感じてしまうこともある。悲しだり苦しんだり悲惨な目に遭っている人たちをどこか面白がってる自分ってどうなんだろうと思ったりする。

でも一方で、映画だからそんな重く考えなくていいだろう、所詮エンタメなんだから、と軽く考えてもいる。

そんなジレンマを抱えている自分だが、今作はそのジレンマをさらに突きつけてくるような映画でした。

その笑っていいのか、いけないのかの微妙なライン。表裏一体としての悲劇と喜劇、ホラーとコメディ、現実と夢。とにかく悲しくて辛くてキツい物語なんだが、どこか笑えて楽しくて面白い。

結論、ジレンマとか言っておきながら、最高に楽しんじゃいました。

そこまでフィルマークスの評価は高くないみたいだが、傑作と思える今作。そこに貢献したのは、ミア・ゴスの圧巻の演技とパールという魅力的なキャラクター造形のおかげだろう。その可愛らしいルックスとは裏腹に恐ろしい資質は堪らなかったし、ジェイソンやフレディ、ジョーカーなどの既存の悪役キャラたちと並ぶ新しいシリアルキラーの誕生だと思う。

またパールがシリアルキラーになる過程もすごく自然でよかったと思う。

僕は環境因子と元来の性質、その両方が限界値を超えたときに人は殺人に至ると考えるているが、まさにその両輪が丁寧に描かれていたと思う。

環境面においては、パールはテキサスの田舎で母の支配の元生活している。母は厳格なカトリック教徒で淫な性欲や青い承認欲を毛嫌いし質素倹約的趣向を持つ人間だ。そしてパールにも同じように迫るのだ。

しかし宗教然りいき過ぎた規律やルールはもはや精神的な暴力でしかなく、それは夢や自由を奪うものだ。僕は別にキリスト教自体を反対するわけではないが、母のパールに対する向き合い方には少し問題がある気がした。そして宗教における負の側面も知っておくべきだとも思った。

キリスト教は人間は生まれてきた段階で既に穢れていて罪を背負っている存在とする原罪説を謳っている。それは捉え方次第だが、人間に罪の意識を植え付け自己肯定感を著しく下げる側面がある気が僕はしている。また貧しいことや弱いことを美徳とするキリスト教の価値観も本来ある人間的な欲求を殺してしまうこともあるのではと思ったりしている。

話を戻すと、母はパールを支配しようとせず解放し、パールの選択や夢を応援してあげることもできたのではないかと、思ったりするわけだ。そうすれば、今作のような悲劇も起こらなかったのではないかと。

しかしだ。環境因子と違うもう一つの要素を忘れてはならない。

そう、パールの生まれ持った"資質"である。パールのサイコキラー的資質は、映画冒頭でダックを殺してワニに食べされるシーンから分かる。その後も随所にそういった顔は見受けられるわけだが、そこにパールの残虐性や攻撃性は見て取れるだろう。またそれを母は感じ取ってパールに対して支配的になったとも捉えることもできるかもしれない。

でも一方で、僕は誰しも人間には攻撃性や残虐性を程度の差こそあれ持っているものだとも思う。

僕自身、幼い頃にアリを潰したり、バッタの足を抜いたりもしていた。また映画鑑賞においては人が堕ちていく姿、悍ましく殺される姿、そんなものが見たいときもある。

しかしそういったある意味危険とも思える欲求は、成長変化に伴ってなくなる場合もあるし、実際行動に移すことはほとんどない。なぜなら人間には理性があるし、社会にはルールがあるから。そして人は経験を積むことで社会性や理性を身につけていく。そうやって暴れる欲求との折り合いをつけていく。

またパールの夢想家的側面も人間に備わっている欲求の一つだと思うし、誰もそれを笑ったり貶したりできないと思う。

夢や目標を抱いて、根拠のない自信を持って、それこそ勘違いで、夢を追いかける。その過程の中で発見があったり、新しい選択が出てきたりする。そうやって人は最初に想定した夢かどうかは別として、前に進んで生きていくことができる生き物なんだと思う。

だから一周回って、やはりパールの母は、危険な側面に目を向けて娘を恐れ支配するのではなく、娘を信じ夢を応援してあげればよかったような気がする。

それができなかった背景は何か。それは我慢をベースとした生活からくるものだ。母は我慢して生きていた。だからパールにも我慢する生き方を迫った。でもそれは負の連鎖だ。自分は我慢しているからあなたも我慢しろ、自分はこんな経験をしたんだからあなたも同じ経験をしろ、というのは、非常に根深い人間の悪しき思考言動パターンだと僕は考えている。

人はどうしても自らの経験を元にした思考や言動をしてしまうわけだが、本当に相手のことを愛し考えているなら、自分の経験と同じ経験をさせようとするのではなく、自分の経験を教訓として違う選択を提示してあげることも可能なはずである。わたしはこう生きたけど、あなたはこう生きてみたら、と提案してみる。パールを尊重してあげる。パールの選択を応援してあげる。

またこういう見方もできるだろう。母からの愛が不足していたから、パールの残虐性や攻撃性が暴れてしまい動物を殺すに至っていたと。

愛を受けて育たなかった子の非行率が高いのはなんとなく想像できる。またそれはパールが過剰なまでに夢に突っ走る姿とも関係しているかもしれない。母から愛や承認がなかったがために、パールは孤独に苛まれ自尊心が育たず、その結果として世間から承認される煌びやかな世界の象徴である映画のスターになりたがった。承認欲求の暴走の裏側には、孤独や親からの愛の欠如が隠れているのかもしれないと思った。

でもだからと言って母が全て悪いとは言えないのが、僕の思うところ(ここからはさらに自分の勝手な解釈が暴走するので、ご容赦ください)。

なぜならパールは言ってもいい大人である。外の世界に飛び出すことはできなくなかった。親の言うことを聞かず逃げ出すこともできたと思うのだ。でも、パールはそれをしなかった。そしてそこに、パールの才能や自信、勇気の欠如が表れていると思う。

パールが今しかできないことに挑戦したいとか言いつつ、親の面倒や農場の仕事があると文句を言いながら田舎に残り続けるのは、なんだかんだ今いる場所に居心地の良さを感じると共に、外に出ることを無意識レベルで恐れているからである。

またパールは外の世界の出来事は全く知らない無知な女の子で、外の世界にどうやって生きていくのかなど現実的な想像は全くできていないようにも感じるところである。

ここではないどこかへ行きたいけど、行けない。パールはそうやってなんとか自分を保っていた人間だと言えるのかもしれない。パールが自分を特別で価値がある人間であると思うと同時に、みんなと同じでありたいと思ってしまう心理にもそれが現れている。パールは夢と現実の狭間で日々揺れ動くことで、夢を壊すことなく生きていたのだろう。

パール然り人間は、夢を持ってしか生きられない。夢を見ることができるから、希望があるから、人は前を向いて生きていける。

夢に囚われた女の子が、どこに行き着くのか。

一見の価値はあります。

ただ軽くトラウマになるシーンもあるので要注意作品ではあります。





ーーーネタバレーーー





今作の最大の見どころは、エンディングで見せるパールの顔だ。それほど映画を見ているわけではないが、そのあまりに衝撃的な顔は、勝手に映画史に残るものだと思っている。もうそれ以上笑わなくていいよと思うほどのはち切れんばかりの笑顔は、ずっと見続けていると、ゲシュタルト崩壊を起こし、笑ってるのか、泣いてるのか、怒ってるのか、わからなくなる。いろんな感情がごちゃ混ぜになっていて、まさに感情の最高到達点は笑顔であることを痛感。

このパールラストの顔、最後の選択をどう捉えるか、ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかは、見る人によって意見が異なるだろう。また見た時の気分によってもだいぶ変わってきそうではある。

ただ大方、ラストの顔は狂気的に思えるものだろう。ついに狂った、頭がおかしくなっちゃった感じがするだろう。

しかし実際パールが最後に取った選択は狂気的に夢を追いかけるのをやめ現実的にあるものを大切にしようという、実に「正気的」なものであるという見方もできる。

そしてそれが故の、あの笑顔。

一見正気的な選択が狂気的な笑顔を生んでいるのだ。

そう、望むことを諦めて生きていく、屋敷でずっと暮らしていくことの方がずっと狂気的なのだ。もちろんあるものを大切にするとか、足るを知る精神も大切だが、本来人間は望む生き物なのだ。ここではないどこかへ憧れ、目標を持ち、夢を追いかけるもの。それが人間の自然な姿であり、真っ当な生き方なのだ。

しかし一方で、夢とは危険な代物である。夢がないものは面白くないし、夢を持っていることがあるべき姿とされる風潮は今の時代あるだろう。だから人は夢を求める。夢を描き作り出し叶えるために生きる。

でもそれは見方を変えれば夢に囚われているとも言える。また酷い場合、夢にいいように使われてしまうこともある。人が夢を追い求める心理を利用するものもいる。

憧れて入った夢の世界も想像してた世界とは全く違ったという話もある。アイドル、俳優、ミュージャン、芸能界、煌びやかだが、いざ入ってみると、実はそうでもなかったりする。

夢を餌に、キラキラした世界を見せ、自己実現欲求や承認欲求を刺激し夢溢れる若者を釣る。夢と現実が入り混じった世界が加速している昨今、誰もがここではない世界を見ることができるし、誰でもネットで顔を出せるし、有名人と一般人の境目もなくなり、夢と現実の境目はますます曖昧になっている。

本来目にすることもなかった情報が入ってくると、人は自分の世界と違う世界をどうしても比較してしまう。そして相対的に幸福度が下がってしまう。

とりあえず自分軸の幸せを持つためにも、自分が好きなことかどうかは確認していった方がいいだろう。

好きなことをコツコツとやる。
自分のあるもの中でコツコツとやっていく。
そうやって、自分の現実と夢を擦り合わたり引き寄せていく。
そしたら、夢が実現することもあるかもしれない。

そういう意味では、パールは諦めるのが早過ぎたような気もするな。


<裏テーマ>
今作の裏テーマ的にあるのが「本音の恐ろしさ」だろう。

迂闊に人の深い部分まで聞かない方がいい。お互いの共通する部分で薄くて浅くて広い会話をする方がいい時もある。というか一般的にそっちの会話が日常的だろう。なぜなら本当のところで会話すると争いが起きるから。あるいは理解されないから。引かれるから。

深く関わり知り過ぎることは時に危険で、程よく距離がある方がいいのかもしれないと思った。

でもだから人は表の顔で当たり障りのない会話をしたりする訳だが、それが故にどこか孤独を抱えているわけだ。

クライマックス、金持ちブロンド美女と貧しい黒髪パールの対峙シーンは、息詰まるものだった。パールが胸に抱えていたドロドロとした本音をブロンド美女に吐露していくのだ。でもブロンド美女はその予想外の闇に引いてしまい、パールを受け入れられない。そしてその事実が人が本当のところで向き合うことの難しさを物語っている。

なんでも聞くよ、なんでも話してという悩みを聞く姿勢は一見優しくて素晴らしいんだが、これまでの関係性には戻れないほどに強烈な本音と、明らかに聞き手のキャパシティを超えた内容から、パールは話すべき相手ではなかったし、ブロンド美女も聞くべきではなかっただろう。

また仮にブロンド美女がパールに共感し的確で優しい言葉を投げかけたとしても、二人の容姿や環境はあまりに違っていて、それはそれで無意味だったようにも感じる。

要はパールは本当の自分を出したことで、相手にも認識されたがために、悲惨でどうしようもない自分の現実が露呈し、それに耐え切れなかったのである。

また、これは殺された映写室で働くイケメンにも言えることだが、パールは本当の自分を出したら怖がられ逃げられることを痛烈に嫌っているような気がした。ブロンド美女は必死に恐怖を隠そうとしてはいたもの、それはバレバレで、本当の自分を受け入れてもらえなかった、ということが強烈な殺意を呼び起こすのである。ラストのワンカットでの殺害シーンの迫り来るパールと逃げるブロンド美女を捉えるカメラワークは非常に素晴らしく控えめに最高でした。


<ジョーカーとの共通点>
・サイコキラーになった過程が描かれている
悪者にもそうなった訳があるという、ビハインドストーリー

・夢を持ってる
ジョーカーは、コメディアン
パールは、映画スター

・母との確執

・長尺で自分の思想を語る

・ラストが笑顔で終わる


<コロナ禍での撮影>
コロナ禍でスケジュールに隙間ができたため、ニュージーランドで即席で作ったらしく、勢いと流れで作ったからか、とにかく熱量がある作品に仕上がっていた。

また当時万延していた閉塞感と、スペイン風邪が流行っていた映画内の時代設定がマッチしていた。

人々は孤立し、人を欲する。
内に閉じこもるのではなく、外に出たい。

パールは感染症や戦争、夢産業の一つである映画によって生み出されたシリアルキラーとも言えるだろう。
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