ハル

サントメール ある被告のハルのネタバレレビュー・内容・結末

サントメール ある被告(2022年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

一つの裁判を通して、法廷劇かのように展開される映画は、子殺しの罪云々などではない主題を示唆する。ロランスの罪や物語を中心に据えながら、ラマの人生が交錯し、ラマの母親の人生が交錯し、社会における人種やジェンダー、とりわけ、「母親」について不可視化されるあらゆる問題が浮き上がる。
法廷では、裁判官とロランスとの答弁含め、言語が事実を語り、言語が想いを語り、言語が訴えを語る。その一方で、法廷の間に挟まれるラマに纏わるシーンは(台詞が少ないという意味で)静かで、その質の異なるシーンの入れ替わりのバランスが素晴らしかった。特に、鏡台の前で着飾り、すとんと感情が抜けたような無表情のラマの母が沈黙の中で涙を流すシーンには圧倒される。言語では語られない、ただひしひしと伝わってくる壮絶な"もの"…。それはロランスの苦悩やラマの不安ともリンクしていて、その映画的手法の鮮やかさに本当に引きこまれた。ラスト、ソファに身を投げ出し横たわったラマの母が「疲れた」と呟く。ロランスの判決でもなく、ラマの出産でもなく、このシーンがラストにくる意味を考えたとき、私は自分の母親のことを思い出さずにはいられなかった。
ずっと、産む側ばかりが責を問われるジェンダーの問題と母娘の確執についての話なのだとばかり思って観ていた。でも、映画の中盤終わりくらいから、この映画の意味するところが明確にわかってきて、涙が止まらなくなった。「母親」であること、その言葉にならない(不可視化されてきたという意味でも言葉にならない)、言語化できない、壮絶さについての話だった。孤独、いたみ、苦しみ、息の詰まるような逃れられなさ(「母親」という枠組みに課せられた役割)、自身でさえも認めることのできない悪夢のような不幸せ。母が不幸だとは思わない。でも、その事実だけのシンプルな話でもない。

この社会で「母親」になる/「母親」であるということは、正気と狂気の狭間にその身を渾々と置くということなのかもしれない、と思う。弁護士の語ったような、キマイラの怪物を胸の内に飼いながら。
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