しの

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥのしののレビュー・感想・評価

2.9
すでに理解した授業なのに、なぜか補習を受けさせられて、しかも今回はめちゃくちゃ先生がつまらない、みたいな映画だった。元々そういう話だったでしょ……という。自分は別に受けなくてもよかったなこの補習。

前作は信頼できない語り手形式により、「何が笑えるかは自分で決めりゃいい」という主人公の絶望による開き直りと、「好きに『物語』を見出す」観客が共犯関係になることで、彼をカリスマとしたい願望もまた彼を虐げた無関心と同根である、ということを体感させるものだった。今回も言っていることは同じなのだが、しかしそれをむしろ徹底した「信頼できる語り手」でやるのである。

つまり今回はむしろ妄想と現実の区別が過剰なほどハッキリしている。ミュージカルはアーサーの逃避先でしかないし、そこで登場するジョーカーは何ならもはやガガに歌で押されている。元々そういうテイの良いアイコンでしかないということだ。さらに加えて、法的劇という形式で前作で何があったかを事細かに振り返るダメ押しっぷり。客観的に見ればこうでしかないよねと。ここでひたすら主人公の悲惨な境遇が開陳され続けるのが酷い。結局、弁護側も検察側も大衆も「ジョーカーか否か」にしか関心がなく、アーサーには無関心なのだ。

だからこそ、アーサーは法廷を「ショーの舞台」にしようとする。そうすればみんな自分に関心を持ってくれるはずだから。しかしそれこそが人々をアーサー自身から無関心にしていく道なのだ。「必要なのは愛」だったのに……。こう書くと、前作の筋をフィルター補正無しでなぞっているのに等しいことが分かるだろう。

しかし自分が思うのは、前作がそもそも「客観的にはこれだけのことなのに、ジョーカーという『物語』のフィルターを噛ますとこう見えてしまう」点に危うさ切実さがあるという話だったわけで、そのフィルターを取っ払ったらこうなるというのは不要な補足でしかないということだ。アーサーの身の丈に合わせたが故の「芸のなさ」なのか? 確かに、裁判であくびのジェスチャーをさせるあたり確信犯だろう。しかし自分に言わせれば、これは前作へのアンチテーゼでもアンサーでも、もはや蛇足ですらもなく、単なる「過剰説明」なので普通に辛いのだ。正直、ミュージカルに入る度にまたか……と思うし、画としても退屈だ。ジョーカーとは? アーサーとは? を本人含め直截な言葉で語り続け、リーとの顛末もそうなるだろうなという所に一直線に向かうだけ。ラストカット背景の皮肉すら前作に内包されると思う。

「前作の責任をとった」とか美しい評し方はできるだろう。しかし、「わざわざ火消しみたいな続編を作る」は責任をとったことになるのか? そもそも前作自体が「そういう受け止め方をされかねない危険性」をあえて内包させる作りになっていたわけで、実際にそういう崇め方をする人々が出てきたのは作品の力とも言える。だから「いやそういうことじゃないんで!」みたいな続編を出されると、あのときの覚悟は……? という気持ちになる。力のある表現とは良くも悪くも社会に影響を及ぼしてしまうもので、だからこそ模索していくのが表現なのではないのか。観客によって受け取り方が180度変わってしまい、なかには危険な受容をする奴すら出てきた……という作品があったとして、そこで重要なのは原則として受け手同士の解釈議論や対話が深まっていくことだと思う。そこで作り手が口を挟むと元も子もないというか。

もちろん、これが必要だと思う人(あるいは自分では気付いていないが必要である人)はいるのだろう。前述の通り、個人的に考える表現のあり方や美学みたいなものには反していたが、こんなに「あえてスベり続けてる」映画もないので、ある意味で圧倒はされた。しかし「この映画が退屈なのはアーサーのジョークが退屈なのと同じ!」みたいな、「逆にうまい」みたいな褒め方は自分にはできない。逆に見てもうまくないと思うから。とにかく長い補習だった。

※感想ラジオ
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は長い補習?スベり続ける続編の意味とは【ネタバレ感想】 https://youtu.be/-6Xzh2_lvuI?si=YkuHoOedv9SAoQQa
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