本作は「酷評が多い」というニュースをよく見かけた作品。少なくとも自分自身の感性で言えば、前作の方がモヤモヤしていたわけで、それに比べては本作の方が共感もできたし、心にしっかり刺さった。
ざっくり前作を振り返ると、マーティン・スコセッシの映画のオマージュ要素と「ジョーカー」というキャラクターの成り立ちを丹念に見せた、という映画で全体として「起こるべきこと」だけがただただ想定内に起きているだけ、という印象だった。
ただ本作はより深刻で切実にジョーカーことアーサー(ホアキン・フェニックス)の内面にフォーカスしていることが僕が気に入っているところである。
しかし、まず映画の欠点としては、そのアーサー・フレックの物語なので、アメコミ・ヒーロー(ヴィラン)としての必然性はかなり弱まっているのと、アンチ・ヒーロー映画であるとはいえ、ジョーカーとハーレイ・クインとしてのリー(レディ・ガガ)とのロマンスからの大暴れを期待するもそれらが一切起こらないことへの肩透かしがあるのだと思う。
題材としてアメコミヒーロー映画の要素を拝借はしていても、他の人間ドラマを扱った映画と代替可能な点は、難点だと思う。
ただ本作は「ファンダム(オタク)」や「キャンセル・カルチャー」の象徴として、アメコミ原作が必要だったというのは理解できる。
「オタク」と一言で言い切るのも難しいが、例えば「シネフィル」と「映画オタク」というのも類するようで性質が違うと僕も思っているし、トッド・フィリップス、あるいはホアキン・フェニックスも思うのではないか、というの本作からは感じる。
「映画」を好きだという点は共通していても、その熱狂に対しての悲しさが本作では表現されている。
つまりは、ジョーカーとしては英雄として評価されても、アーサーとしては愛されないジレンマ。
アーサーにとっては、ジョーカーも自分の一部ではあったわけだし、現実の過酷さが間違った形であれ、虚構と混濁することで居場所を作り出していたにも関わらず、その住処すら、そのファンダムによって完膚なきまでに奪われる。
つまり現実社会の中では「悪」としてこそ承認されていたにも関わらず、最終的にアーサーとして生きることは結局のところ拒絶されるということに帰着する。
そのことによって、とにかくアーサーは不遇な人生の中において「自認」を獲得しても却って尊厳を破壊される。
その一点に向かってストーリーは転げ落ちるように進展していく。
中盤以降の「法廷劇」では、是と非に分断されアーサーとジョーカーに引き裂かれもするが、それも全ては「社会からの目線」に過ぎない。
その引き裂かれた真ん中に本当のアーサーはいて、弱者でありながら、あるいは乏しい思考でも、自問自答を繰り返して「自認」を獲得する。
それが全ての始まりであったはずで、ほんの僅かな人生の回復でもあったはずのことが、誰にも見てもらえない、受け入れてももらえない。そのことがとにかく胸を締め付けられる。
自分が作り上げた虚構の世界も、現実に耐えられなくて犯罪者になり「悪」になることで得た心の自由もまた、他者が勝手に作り上げた妄想によって奪われる、という物語が、まさにその「オタク」的なファンダムという世論によるコンテンツの消費とキャンセルカルチャーを象徴しているようで、立派な映画だと思った。