ShojiTaniguchi

ジョーカー:フォリ・ア・ドゥのShojiTaniguchiのレビュー・感想・評価

4.3
数々のコメディ映画を手掛けてきたトッド・フィリップスが脚本・製作・監督を担い、社会現象といっていいほどの特大ヒットとなった「ジョーカー (2019)」の続篇、というよりは二部作の後篇で、前作から引き続きホアキン・フェニックスが主人公のアーサー・フレック = ジョーカーを演じ、そのパートナー役としてレディー・ガガが出演している。

厳しい財政状況により鬱屈としていた1980年代の米国を舞台に、社会的弱者として虐げられた生活を送る精神不安定な道化師の男がその状況からの脱却を願いながら、不幸が限界まで積み重なった結果、劇的な状況変化が発生し、何者でもなかった男がジョーカーという特異な存在に変貌していく物語が描かれたのが前作だが、大前提としてその前作の鑑賞なしには今作の本質を理解することが極めて難しいように感じる。
アーサー・フレックという主人公に自身の辛い境遇を重ね合わせ共感する人が多かったからこそ、彼が (悪の) カリスマへと上り詰めていく物語にカタルシスがあり、それが前作の評価の高さを下支えする部分でもあったのだろう。

対して今作は、前作でアーサーからジョーカーへと変貌した主人公が、ジョーカーから何者でもないアーサーへと回帰していく物語で、前作にて主人公が獲得したカリスマが次々と悲痛な音を立てながら剥がれ落ちていき無防備で脆弱なアーサーが再び顕在するという、前作とは真逆の構造になっている。
よって、前作においてジョーカーという特異な存在の誕生とその唯一無二なカリスマ性に自己を投影しカタルシスを得た鑑賞者であればあるほど、今作のように夢も救済もない現実を突きつけられるような物語は観たくなかったと失望してしまうだろうと感じる。

正確には、少なくとも夢については、今作においてたっぷりと可視化されている。
アーサーと、レディー・ガガが演じるリー (原作のDCコミックスにおけるハーレイ・クイン) による共同幻想的なミュージカルシーンの数々がそれだ。
それらのシーンの演出は劇伴や歌唱の素晴らしさもあってとても見応えがありながら、どこか空虚かつハリボテのようにも見えて現実逃避的でもあり、それを夢想するアーサーという人間の知性と教養の限界をも同時に感じさせるという、非常に複層的でハイコンテクストな演出になっている。

リーはある意味で我々観客と同じく、アーサー = ジョーカーを抑圧された社会構造の破壊者と崇める存在として登場するが、アーサーが自身の限界に気づきジョーカーというカリスマ性を保てなくなってきたと見るや、無価値な存在だと見做し容赦なく見捨てる。
リーが見つめ続けていたのはジョーカーというカリスマであり、アーサーという人間ではなかった。
では我々鑑賞者はどうだろうか? アーサーという人間の苦悩からの脱却や成長よりも、ジョーカーの破滅的カリスマの顕現を期待していたのではないか?
前作から引き続き脚本・監督を手掛けたトッド・フィリップスが、今作を鑑賞する観客の反応を予見し、その非情をリーという存在に投影しながら演出していたかのようにすら感じる。

「フォリ・ア・ドゥ (共有精神病性障害)」という副題は、劇中においてはアーサーとリーが夢想した悪のカリスマ達 (ジョーカーとハーレイ・クイン) が君臨する世界と解釈することができる。
が、トッド・フィリップス監督の真の意図は、前作における主人公の物語や存在を過度に神格化し、我々の実社会へも (架空の存在であるジョーカーの言動を模倣する者達の登場によって) 侵食するほどの影響そのものを指して、それこそが我々の社会が内包する巨大で虚しい幻想であり病なのだと切り捨てることだったのではないか。

世間の評価が真っ二つに分かれることが初めから宿命であったかのような、極めて特殊な作品だ。
私は前作・今作を合わせた二部作としての物語構造の美しさに感銘を受けたし、とても価値のある映画だと感じる。
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