オヂサン

ウィッシュのオヂサンのネタバレレビュー・内容・結末

ウィッシュ(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

全然楽しめなかった。この映画が本当に伝えたい事なんて、多分これっぽっちも理解出来ていない。マグニフィコの事を考えると気の毒、とさえ感じてしまう。私がおかしいのか、もう歳なのだろうか。

100周年記念だからなのか、昔の2Dアニメーションの雰囲気を残したCGになっていた。拡大するとキャラのCGにちゃんとアウトラインがある。今までのディズニーをリスペクトしているようでとても好きな演出だった。曲もとても良い。



▼ 以降は兎に角長い小言。
やりたい事は何となく分かる。ただ今回のこの「Wish」という100周年記念の映画は個人的に気になる点や同意できない箇所が多すぎて全く集中が出来ず終い。

「100周年」という言葉が先に決まっていて、昔からのディズニーのセオリーに沿って物語をはめ込み、さらに今までのディズニーのオマージュを無理に詰め込もうとした結果、元々良かった設定を変えざるを得なかった…のが今回の「Wish」だったのかもしれない。0から御伽噺を作りたかったというスタッフのコメントを聞いても、やっぱり「100周年」と「オリジナルの御伽噺」が上手く融合できずに喧嘩しちゃったように感じる。

マグニフィコが最高の王だとは思わない。かと言って、主人公や王妃にも全く共感出来ない。主人公は後のこと考えてなさ過ぎるし、王妃は他人事過ぎて…君たちは不満でも、あの王国でやっと幸せを掴んだ人もいるかもしれないのにな、と思いながら終始観ていた。

そもそもの根本として「夢を他人に叶えてもらう」なんて発想を1ミリたりとも考えた事がなければ、叶わなかったとしても自分の夢は自分で叶えようとしないと意味がないとさえ思っている極端な人間だから、正直最初からこの映画のテーマにピンと来ていなかった。



▼ 悪役について
メイキングでも「ナルシストな男」「ヴィランになっていく様子を描きたかった」と書かれているがそれにしたって微妙だ。

一個人としてのマグニフィコの解釈は…英雄とも悪役とも思えないが、事実だけ考えるとマグニフィコは禁断の書を持ち出すまでさほど悪い事はしていない。防衛本能から願いを篩にかけてはいるが、人々の願いは少しずつ叶えているのも分かる。

①過去に盗賊に襲われ、家族や故郷を失ったトラウマから「今後他の誰かが自分と同じような目に遭わぬように」と誓い、自ら魔法を学び護る術を身につける

②理想的な地を見つけ、そこの王様として王国を築き上げ、外界から自国を守り、その国民達には不自由ない生活を送らせている

王妃の「彼は王冠の事しか考えていない」という台詞は、事実を考えるとど〜しても同意しかねる。国王として仕事が出来ていたから「ナルシスト」はさほど問題ではないというか、鏡をアイテム映えさせる為にとってつけた設定みたいに見えてしまう。

ここでマグニフィコの解釈を「守ってくれと国民が言ったわけでもないのに勝手に守ろうとする。国民の幸せを勝手に決めつけて、偽りの幸せを与え、学ぶチャンスや夢を奪い、国民の本当の声を聞かない独りよがりな独裁者」と取るのなら、マグニフィコは悪かもしれない。

が、正直言って映画だけ観ているとマグニフィコの目的は「訪れた人々から夢と希望を奪い、ぬるま湯みたいな幸せを国民に約束して永続的に与え続け、考える事を放棄させて国に閉じ込め〜etc」みたいな面倒くさい複雑なことではなく単純に「国を守りたい」というシンプルな物に見える。というか1人で抱えすぎて、難しい事を考える精神的余裕はなさそう。どうにもこうにも彼はいっぱいいっぱいで頭が回っていないだろう。

武器を手に取って悪役「らしく」なって色々していたが、うーん…という感じ。マグニフィコがナルシストであり悪役だというなら、中途半端な事をせずに「民衆から税金を巻き上げてその税金を私利私欲のためにしか使わない」「言う事を訊かない奴は全員国外追放」「裏切った奴は死刑」くらいもっと分かりやすく誰が聞いても極悪非道、諸悪の根源みたいな悪役に振り切って欲しかった。

当初予定されていたマグニフィコ夫妻がどちらもヴィランである設定がファンに惜しまれている。
海外のミュージシャンが作成した夫妻ヴィラン版のイメージMVがあったが、そちらの設定の方が100周年に相応しかったのではと思うくらい良かった。どうせなら100周年に初ヴィラン夫婦を誕生させて欲しかった。
予測ではあるが、メイキングで語られている元々のデザイン画や改変前の設定を拾って来て、ファン達がベストだと思うシナリオを組み立てたのではないだろうか。
この動画の中ではアーシャは夫妻の娘であり、スターは王子様の姿である。猫もいる。

https://youtu.be/qtOb2-9tPFQ?si=PWYaucfTEq8oD5en


▼ 選択の責任放棄について
この映画とは全く関係ないが「どんな選択肢でも最終的に決める責任は、自分にある。どんなに他人から圧力をかけられたとしても、嫌味を言われたとしても、選び取ったのは自分で他人のせいには出来ない」というのを大人になってから散々言われてきたし、自分自身でも痛感した事が何度もあった。

だからだろうか。

(昔からロサスで暮らしてきた人々なら知る由も疑問にも思わないのだろうが)
「何も努力せずとも運が良ければ夢が叶えてもらえる可能性がある」という謳い文句でロサスを訪れた人々は国王にも国にも何の疑問も持たず、自ら望んで夢を差し出しているように私には思える。
前述で言った事が個人の責任だとするなら、最初の時点で自ら選ぶ事・考える事・行動する事を放棄し「自分の大切な物を見ず知らずの他人に預けてしまおう」と決めたのは、国民側という風に感じてしまう。

だから「夢を奪われた、返せ!!私らのこと何も考えてない!!自分勝手な王様め!!」と好き勝手言ってるのを観ていると何だかコールセンターに凄い勢いでクレームを入れてくるモンスター客のように感じる。「自ら夢を差し出して望んでロサスに居るのに、奪われただの返せだのコイツらは何言ってるんだ……?」と思ってしまう。
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