クラシックディズニー作品群が作ってきてしまった子ども達(今の大人達)の価値観や社会文化。
その「ケツ拭きシリーズ」ともいうべき実写リメイク群たち。
今作も漏れずその系譜にあるわけだが、ムファサとスカーの過去を描くことで何を伝えようとしたのか?
前半の語り口を見るに、旧態然とした父親に植え付けられた価値観から劣等感に支配されるスカーと、逸れ者ゆえにリベラルな母親に育てられ高い能力や倫理観と自信を持つに至ったムファサの結末の対比に
「王政」や「血統主義」や「家父長制」や「弱肉強食」の否定を言いたかったのだろうが
そもそも前日譚にしてしまった結果、旧作の「血縁王政の誇り高きムファサ王」という旧態然としたイメージに繋げなければいけないので元も子もない話になってしまっているし
プライド・ランドの誕生をクライマックスに持ってきてしまったせいで、スカーのヴィラン転向という最も重要な要素が、繋ぎ≒ダレ場で片付けられる始末である。
そもそもプライド・ランドにおける「王政」とはなんだったのか。
スカー王時代に飢餓に陥ったことから考えるに、やはり各種動物への食事の配分と狩猟を王が取り仕切るという事なのだろうが、ミレーレはムファサ達が来る前から完璧な異種共生の楽園(仲良くの意味じゃなく)であった。
それこそまさに『サークル・オブ・ライフ』と言える様な自然な生態系の食物連鎖が機能していただろう。
そんな食物連鎖の自然界において、今作の様な"猿も鳥も食べない"ムファサの倫理観は、旅の仲間内では機能するが、生態系全体としては「食われる猿と食われない猿」がいなければ成立しない。ただの弱肉強食より酷い縁故主義でエリート主義な社会になる事を作り手は理解しているのだろうか?
キロス達との闘いは確かに全動物協力すべきだし、それをまとめたムファサは確かに英雄だが、それと王政とは全く別の話だろう。
しかもちょっと拒否しただけでホイホイ居座って王を名乗り、スカーを頑なに赦さず個人としての名前を剥奪までして火種を作り、もとは全くの出入り自由だったミレーレに追放制度まで作ったというのだから
正直言ってムファサは"無能な侵略者であり独裁者"としか言いようがないのではないでしょうか。
ライオン・キングの謳う「サークル・オブ・ライフ」が生態系の円環のバランスではなく、優れたエリートによる血統表でしかなかった事を自らゲロったバカ作品。
しかもラストには孫がキラキラした目で祖父の"偉業"を崇拝しているのだ。
スカーの劣等感など気にも止めずに。
スカーの奪われた名前や生い立ちなど忘れたかのように。最初から存在すらしなかったかのように。
「荒れていたミレーレをプライド・ランドとして再興し、兄弟王政を敷いたがスカーの劣等感は止まらず」みたいな話にしておけばいいものを、米国リベラルもここまで堕ちたかと。
てかミレーレの設定や描写が死後の世界すぎて、「ライオンキング」というシリーズ自体が王を夢見たライオンの死後の夢なのだと思わないとやってられない。