まぬままおま

ナイン・マンスのまぬままおまのレビュー・感想・評価

ナイン・マンス(1976年製作の映画)
5.0
メーサーロシュ・マールタ監督作品。

あえて言わせていただきます。ユリは「クソ女」です。
今彼と元彼を会わせようなんてろくでもない。待ち受けるのは破滅なのだ。

それでもユリのことを嫌いになれないのが、メーサーロシュ監督の巧みな作家性であり描き方なんだと思う。

工場長がユリを一目みた瞬間から運命の人だと直感し、彼女に猛アタックするのは年齢差もあり、「キモい」のだが、嫌々ながら受け入れて彼の直感通り結婚に向かっていくのは、何となく心情が分かってしまう。

工場長は経済的に豊かであり、職ももっているから彼女の将来は安泰である。実際、彼は家を建てている最中であり、家族がその建設に手伝ったりと仲もよい。ただユリの心が彼と結婚すれば満ち足りるかと言えばそうでもないのだと思う。なぜなら彼は彼女に家父長的に権威を振るい、専業主婦になることを強いるからだ。それは彼女の生き方に反する。彼女は手に職をつけて経済的に自立するために働いていたわけだし、大学の通信教育も受けて知識を得ようともしている。そんな自立/自律した個人でいようとするユリは、彼の思い通りな「女」にはなり得ない。結局、彼女は通っている大学の教授との間に子どもがいることがバレて、上述のように彼女が彼と教授を会わせようとするから破滅的な「運命」が待っているのだが。

でもユリの行動を思い返せば、ユリを「クソ女」と化しているのは、私を含む男たちの方なんだと思う。男たちの都合のよい存在になり得ない女を安易に「クソ女」とレッテル貼りして非難の対象とすること。それこそ非難されるべき「クソ」であり、実はそんな家父長的な価値観の男(や社会、映画)たちに対するカウンターとしてユリの存在、ひいては本作があると考えられはずなのだ。

最も衝撃的だったのは、そして本作が大大傑作でありうるのは、ユリの出産シーンを記録したことである。ユリは工場長との間に子どもができた。ユリのお腹がどんどん大きくなっていき、それは映画の演出なのだと思っていた。しかし実際にユリ演じるモノリ・リリは孕んでおり、実際の出産シーンがドキュメントされるのだ。しかもモノリ・リリの顔がクローズアップされるだけの映像ではなく、新生児が子宮口から出てきて誕生する瞬間が映っているのである。それは演出された劇以上に、禍々しく目を背けたいものではあるが「真実」の記録なのである。このように男たちが禍々しく目を背けたい、そして男の思い通りの範疇を超えた女の存在様態を映画として直視させたことこそメーサーロシュ監督の先見性と卓越性であり、ラディカルなカウンターアクションなのである。

そして本作が描いていることは、現在みても全く色褪せない。それは「男たち」の変わらなさでもあり、悲嘆すべきことではある。しかし本作が現前化された以上、私たちは映し出される「真実」を直視すべきではあろう。