ミヤウチ

ゴジラ-1.0のミヤウチのレビュー・感想・評価

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
1.1
初代をスポイルする、最低なゴジラ。
山崎貴が初代ゴジラを見てるのかすら怪しい。

どこが悪いというのも、語りたくもないけど、
最低と言い切る以上は具体的に記述しようと思ってちゃんと書いてたら長文になってしまった。

僕がゴジラ原理主義者なので特にそう思うのかも知れないけど、作家性出してくタイプのゴジラ作品の中では、1984年版以上にテーマが浅くて、極めて表面的だった。
特に、初代の芹沢博士の死に様を全否定する作品なので、絶対に許せない。

まず、ようやく戦後復興に歩み始めた東京を(東京大空襲を生き延びた銀座和光ごと)蹂躙する初代ゴジラが既に「-1.0」をやってるので、敢えて「-1.0」というネーミングをするところからしてナンセンスで、ハナから嫌な予感はしていた。

そもそもゴジラに実存感がない。調布スタジオの優れたVFXの技術に頼り過ぎで、演出面が彼らの技術の高さを完全に台無しにしてる。
例えば、根本的な所で言えばゴジラが無意味に軽快に動き過ぎ。そういう意味で作り込みが初代やシン・ゴジラと比べ物にならないほど雑。VFXをどう使うかで実存感を産むための工夫した形跡がない。まずその時点で初代を踏襲したゴジラではない。

ゴジラ本体だけではなく、物理演算入れてるのか疑問に思う速度で電車の車両が飛んで来たりするので失笑してしまった。せっかく解像度の高いCGを使ってるのに鉄道模型のように見えるし、これで迫力があるって言ってる人はあまり特撮や映画を見慣れてないんだろうなとは思う。
というか、911同時多発テロの記憶がある年代なら分かりそうなもんだし、そもそもCGに頼れなかった初代ゴジラですら相当気を使ってたポイントなので意味がわからない。

ビジュアルだけではなく、音楽の演出も雑で、初代に対する敬意を感じない。

そしてテーマ性で言うと、山崎貴の「アンチイデオロギー」を気取った無自覚なイデオロギーが色濃く出すぎていて、戦争を生き延びてしまったコンプレックスをぶつけるサンドバッグ以上の機能をゴジラが担ってない。水爆や自然災害のメタファーとして機能してきたこれまでの作家性型のゴジラ作品の中でも、モチーフとして蓋然性が低すぎる。
サバイバーズ・ギルト的な心理デッサンが三島由紀夫文学ばりに巧みであれば作品として成立していたかも知れないし、実際初代の芹沢博士の死に様にはその要素もあった。しかしあろうことか万人受けを狙ってか「生」への執着に無理矢理紐づけてしまっているせいで、説得力が失われている。
結果的に、神風特攻隊や初代ゴジラに対するアンチテーゼとしては余りにも雑な作りになってる。

特に許しがたいのは、そのテーマ性が遠回しに初代の芹沢博士の死に様を否定していること。芹沢博士の死こそがゴジラという作品のDNAそのものなので、この時点で-1.0はゴジラではない。

「今度の戦いは死ぬための戦いじゃない、未来を生きるための戦いなんです」と言うけど、太平洋戦争中の日本軍兵士も死ぬために戦ってないし、だから自軍の本部に機銃をぶっ放すような奇行に走る特攻隊員が居たりしたわけですよ。山崎貴の歴史を捉える知性が『永遠の0』の頃から一切成長してないと感じた。
-1.0の作家性を評価してる人は、映画を見るより先に知覧で大人の社会科見学をしたほうがいいと思う。

総じて、「生きてました」的なのは良いんだけど、そこにひっくり返すためには作品として莫大なエネルギーが必要であるにも関わらず、漫然とプロットを作ってるせいでテーマが崩壊している。(トリプルミーニング)

そして、メタ的に評価するのであれば、この作品のメインターゲットたる現代の日本人は民主主義の中に生きてる市民なので、「お上は当てにならないから自力救済でなんとかしようぜ」的なテーマに持ち込むのは、はっきり言って馬鹿。
公益を志すのがアートなので、そこに対する当事者性がないなら作家性を出すべきではない。

0.1の加点は、役者の演技がグリーンバックなのに上手いことと、初代『ゴジラ』と、川北路線とは別に初代再翻訳路線を築き上げた『シン・ゴジラ』の偉大さを再認識できたこと。
あとは、川北ゴジラのように娯楽性全振りのゴジラシリーズの意義を逆説的に見出だせたこと。逆に言うとそれしか評価できない。
評価を-1.0にしたかったぐらい。
ミヤウチ

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