ナガエ

ソフト/クワイエットのナガエのレビュー・感想・評価

ソフト/クワイエット(2022年製作の映画)
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いやー、これは凄まじかった。ここ最近、正直、観る映画は「ハズレだなぁ」と感じることが多かったのだけど、久々にズドーンと来る映画だった。凄いものを観たなぁ。


登場人物の一人が、こんなことを口にする場面がある。

【黒人や有色人種の人たちは、白人のことをバカにすることができる。「白人はクソだ」ぐらいのことを言っても、特に問題にはならない。
でも、私たち白人が、ほんの僅かでも黒人や有色人種を悪く言うと、「ヘイト」だと批判される。】

この映画は、現代的な「多様性・ダイバーシティ」みたいなものを鼻で笑って蹴散らすような「凶悪さ」に満ちているし、「多様性・ダイバーシティ」という言葉が「当たり前になりすぎた」のかもしれない現代性のある一面を絶妙に切り取っているとも言って良いかもしれない。

さて、誤解されたくはないので、まずは僕自身のスタンスについて触れておこう。

僕は、「分かりやすいマイノリティ」ではない。「分かりやすいマイノリティ」というのは、いわゆる「LGBTQ」だったり、障害者だったり、白人社会における黒人だったりのことを指す。僕はそういう、「言葉で分類可能な意味でのマイノリティ」ではない。

ただ一方で、「マジョリティの感覚にはどうしても馴染めない」とずっと思ってきた。だから、「マインドはマイノリティである」と思っている。そういう意味で僕は、自分のことを「マイノリティ」だと認識している。

だからこそ、「分かりやすいマイノリティ」であろうがそうでなかろうが、とにかく「マインドがマイノリティである人」とは感覚が合うし、だからこそ、「多様性・ダイバーシティ」が謳われるようになった現代の風潮にはとても賛成している。「良い時代になっているじゃないか」と思っているのだ。

しかし一方で、そういう風潮に違和感を覚えてしまう場面も多々ある。

例えば映画の話で言えば、最近欧米の映画に、黒人やアジア系の役者がかなり出てくるようになったと感じる。あくまで僕の印象なので、実際どうなのかは分からないが、感覚としてはそう間違っていないだろう。

たぶんその流れは、「ハリウッドは白人ばかりを優遇している」みたいな批判が出始めたからだと思う。だから、欧米の映画でも、非白人を起用することは「ポリティカル・コレクトネス」に沿っていると見なされるようになった、ということなのだろう。

さて、僕は、そういう風潮はなんか好きではない。「そういう風潮」というのは、「批判されないようにポリティカル・コレクトネスを意識するというスタンス」である。もちろん、欧米の映画で非白人を起用する意図は様々にあるだろうし、すべてが「批判されないようにポリティカル・コレクトネスを意識するというスタンス」なわけがないと理解してもいるつもりだ。しかしやはり、変化の過渡期故に、そういう風潮が目に付きやすい。

最近の話で言えば、歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレが炎上していることが記憶に新しい。正直、その炎上を詳しく追いかけているわけではないのだが、要するに「『マイノリティの人たちが本当に求めているものを作ろうという意識』ではなく、『ポリティカル・コレクトネスに配慮していますよという意識』が透けて見えているが故の炎上」なのだろうと理解している。

まさにこれなんかは、「多様性・ダイバーシティ」という言葉が広がったが故の弊害と言っていいだろう。恐らく世の中には、「ルールが分からないスポーツに参加させられている」みたいな意識を持っている人がたくさんいるんじゃないかと思う。「多様性・ダイバーシティ」というルールを根本からは理解できず、「たぶんこういうことなんだろう」という理解で行動するから、「いやいやいや」みたいな感覚になってしまうのだ。

というわけで僕として、「『多様性・ダイバーシティ』が重視される世の中になったことは喜ばしいことだが、一方で、そのことによる弊害も如実に現れ始めている」という風に世の中を見ている。これが僕の基本スタンスである。

映画を観ながら、「なるほどこれは難しい問題だ」と感じた。色んな思考が頭を過ぎったが、まずは、以前大学時代の友人と話した「男女平等」についての話に触れておこう。

その友人も男なのだが、話の流れで「男女平等」の話になった。お互いに、「男女平等を目指すべき」という基本スタンスは一致していたのだが、「男女平等」が示す意味が異なっていた。僕は基本的に、「男女の権利が不平等であることによってマイナスを受けている女性が、せめて0ぐらいにはなれるようにすること」を「男女平等」だと考えている。しかしその友人は、「それだけでは不十分だ」という。彼は、「男女の権利が不平等である現場においても、プラスを享受している女性はいるはずなのだから、その女性たちも0にならなければ、男女平等とは言えない」というのだ。

分かりにくいかもしれないので、具体的に書こう。その話の中では、「レディースデー」の話が出た。映画館などで、女性が安くなる日のことだ。この手の商業系のサービスは、実際には、「女性を安くすると、女友達や彼氏も連れてきてくれるだろうし、女性の方が口コミで発信してくれるから広がりが期待できる」みたいな点を見込んでいるのだと僕は想像しているが、しかし解釈しようによっては、このような「レディースデー」を、「社会の中で男性より低く扱われている女性のためのサービス」と見ることも出来るだろう。その友人も、どうもそのような解釈をしているようだった。

そしてそれ故に、その友人は、「マイナスを受けている人が0になることはもちろん大事だが、それと同時に『レディースデー』もなくなる(つまり、プラスが0になる)必要がある」と主張していたのだ。僕はあまりその意見には賛同できず、反論したのだが、そうすると、「お前はフェミニストだからなぁ」みたいなことを言われてしまった。

この話、少しだけ冒頭の「白人が非白人を悪く言うと…」という話に似ていないだろうか?

あるいは、少し前に読んだネット記事のことも思い出した。それは、「産休で時短勤務している同僚(男性)の仕事のカバーをするのがしんどくなったから会社を辞めた」という男性の話だった。その記事を読む限り、会社を辞めたという男性は、時短勤務の男性ことも、働いていた会社のことも、決して悪く言っているわけではなかったと思う。時短勤務で仕事の時間を制限していることも正しいし、そのような仕組みを会社が作っているのも正しい。ただ、そうだとしても、やはり自分が置かれている現状にはどうにも我慢ならん、という主張だった。全体のトーンとしては、「どこにこの怒りをぶつけるのが正しいのか分からないのが難しい」みたいな感じだったと思う。

これも、とても難しい問題だろう。

最近特に、「男性も有給休暇を取得すべし」という風潮が強くなっている。もちろんそれは良いことだ。ただ、「男性に有給休暇を取得させる」ということだけ実行して、他の部分を何も変えなければ、結局どこかに歪みが生まれることになる。

そしてそれは、人種差別についても同じなのだと、この映画を観て改めて意識させられた。

非常にややこしいのは、アメリカの場合は特に、黒人を奴隷として使役していた歴史があることだ。その過去は消せないし、だから「白人は黒人に対して贖罪の念を持つべきではないか」という感覚が、どうしても僕の頭には浮かんでしまう。

ただ、一旦その話は脇に置こう。その場合、ある登場人物が発した次の言葉は、示唆に富むと言えるかもしれない。

【1776年に白人がアメリカを建国したんでしょ?その国が今、奪われようとしている】

「奪われようとしている」について、それがどういう状況なのか具体的な言及はなかったが、要するに白人以外の黒人・移民などによって、白人の居場所や権威みたいなものが失われつつあるということなのだと思う。

僕は正直このような感覚とは縁遠いが、日本にはこのような感覚に共感できるという人が結構いるはずだ。というのも日本は、頑なに「移民」を受け入れないし、「難民」も追い返しているからだ。恐らく、「伝統的な日本」みたいな幻想にすがりたい人が多いのだろうし、そういう人からすれば、「奪われようとしている」と発言する女性の感覚には共感できるのではないかと思う。

つまりこの映画は、「『多様性・ダイバーシティ』という言葉が強くなりすぎたが故に、マジョリティの方が逆説的にマイノリティ的立場に追いやられてしまっている現状」を切り取っている映画だと言っていいだろう。

普段から、観る映画について調べないので、映画を観ながら、「この映画は一体誰が撮ったのだろう?」と考えていた。「誰が」というのはつまり、「白人」なのか「非白人」なのか、ということだ。家に帰って公式HPを見てみると、監督・脚本を担当したのが、「中国系アメリカ人の母親、ブラジル出身の父親を持つ人物」だと分かった。普段なら監督の属性など気にもしないが、この映画の場合そうはいかないように思う。というのも、「この映画を作ったのが、万が一にも『白人至上主義者』なのだとしたら、それはさすがに受け入れがたい」と感じるからだ。

公式HPに、監督の言葉が載っており、非常に面白いのだが、中でも鋭いと感じた部分を引用してみよう。

【私たちが生きる時代のストーリーテリングと映画製作は、非常に危険な状態にあると思います。アメリカのインディペンデント映画は、もう何年も観客を甘やかしてきました。観客や視聴者を慰め、安心させることに集中する時代が続いているのです。(勢力が縮小するどころか拡大している現実があるにもかかわらず)ナチスや秘密結社KKK (クー・クラックス・クラン)のメンバーが、自らの過ちに気付いたり、有色人種の主人公が、人種主義にあふれるこの世界で自らの重大な欠点を正したりという物語が中心です。もちろん、慰めを与えたり、人生には希望があるということを観客に思い出させたりするような映画があることも重要です。しかし、人種差別や白人至上主義に関して容赦するよう促す映画や物語が支持されているのは、非常に残念なことです。そうした間違った物語は、ずっと前から人々の内側にあり、それが白人至上主義を支えてきたのです。】

この言葉は、「なぜ『強烈な白人至上主義者』を主人公にした映画を作ろうと思ったのか」の答えになっていると言っていいだろう。つまり、「これが現実だ」と突きつけるためにこの映画は作られているというわけだ。

この映画を観てどう感じるのかは人それぞれだが、「この映画を観てどう感じたか」は、まさに鏡のように、「私たちが社会をどう捉えているか」と重なるというわけだ。恐らく、この映画が描き出す「現実」に、共感する人だっているだろう。この映画は決して、人種だけを問題にしているわけではない。「理想の女性とは従順な妻である」「男なら男らしくしろ」みたいな、「ステレオタイプこそが正義である」とでも言わんばかりの主張が散りばめられている。そしてその「ステレオタイプこそが正義である」という、この映画が全面に発するメッセージに共感する人はたくさんいるはずだ。日本に生きる、いわゆる「昭和を引きずっているオジサン」なんかは、まさにそういうタイプではないかと思う(しかし、こういう言い方をしている僕自身も、「ステレオタイプ」に飲み込まれていることに気をつけなければならない)。

「ソフト/クワイエット」というタイトルは、白人至上主義者である登場人物たちの「布教のスタンス」を示している。「表向きはソフトに、ひそかに(クワイエット)。そうすれば人々はすんなり受け入れてくれる」というわけだ。

つまり、「ソフト/クワイエット」というのは、「身近にいる誰もが、白人至上主義者的である可能性がある」という現実を示してもいると言っていいだろう。見た目は「ソフト」で「クワイエット」なのだから、内にどれだけヤバい思想を秘めていても、なかなかそれは見えてこない。そのような「怖さ」も感じさせる作品だった。

ざっくり内容を紹介しておこう。
幼稚園で先生として働くエミリーは、その日、幾人かの女性を集めて「会合」を開いていた。会の名前は「アーリア人団結をめざす娘たち」。ザ・白人至上主義者たちの集まりというわけだ。彼女たちは、「コロンビア人に管理職の座を奪われた」「多文化主義は失敗だ」「白人も結束すべき」と言い合う。エミリーは、鉤十字を描いたパイを焼いて持っていき、別れ際にあるメンバーはナチス式の敬礼をする。彼女たちは、自分たちの思想をどう広めていくべきかを検討し、今後の活動に繋げていこうと考える。
諸事情あって、エミリーの自宅に場所を移すことになり、何人かが先に帰った。ワインでも買おうと、参加者の一人・キムが経営する食料品店に立ち寄ったのだが、そこにアジア系の姉妹が客としてやってきて……。

さて、ここまで一切触れてこなかったが、この映画は「全編ワンカット」で撮影されている。その意図について監督はHPで、「こう決断したのは、この物語が伝統を破るよう意図したものだったからです。」「私は憎悪犯罪をありのまま描き出し、観客が1秒たりとも気を抜くことができないような映画を作りだしました。そうでなければ、この映画は偽りということになります。」と書いている。

しかし、もっとシンプルに、ワンカットである必然性を感じられると思う。観客は、「まさに自分もそこにいるかのような没入感」を得られるはずだ。「会合」や「事件」をその場で体験しているような感覚になれる。確かに、「1秒足りとも気が抜けない」作品と言えるだろう。

また、「この短い時間の中で、そんなところまでたどり着いてしまうのか」という驚きも感じられるだろう。映画は90分ぐらいの長さで、もちろんそれは撮影時間と同じである(同じ撮影を、4日間連続で行ったそうだ。恐らく、4本撮った中から、最も出来が良かったものが選ばれたのだろう)。そして、映画で描かれる物語は、「たった90分の出来事」としては、本当に驚くべきものに仕上がっていると言っていいと思う。普通なら、平和に始まった物語(話している中身はともかく、女性たちが集まって会合を開くというのは、穏やかな始まり方だと言っていいだろう)が、たった90分で凄まじい地点にまでたどり着いてしまう、その凄まじさは、やはりワンカットであるが故の効果だと思う。

たった90分の急転直下が、非常にリアリティのあるものとして描かれているのも上手い。普通なら、「さすがにそうはならんやろ」と感じる部分が出てきてもおかしくないと思うのだが、この映画ではそんな風に感じさせる場面はない。「白人至上主義者」という設定や、ここのキャラクターの造形などから、「なるほど、こんな人達がこんな風に集まってしまったら、こんな着地点もあり得るかもしれない」という納得感がとても強いのだ。

「会合の目的」が理解できた辺りから、物語はずっと「狂気」の只中にあると言っていいのだが、その「狂気」が最後の最後まで上り調子で続いていくのも上手い。「ワンカット」という強烈な制約の中で、それを実現することは、並大抵のことではないだろう。

凄いものを観たなぁ。間違いなく賛否分かれる作品だと思うし、「なんだよ、差別主義者が喚き散らしているだけじゃないか」みたいに感じる人もいると思うが、僕は、「多様性・ダイバーシティってどういうことなんだっけ?」と、みんなで一度振り返ってみる、そんなきっかけとしての存在感も放っている作品ではないかと感じた。久々に、良い作品に出会ったなぁ。
ナガエ

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