ナガエ

トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代のナガエのレビュー・感想・評価

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「♪オラは死んじまっただ~」の人なのか! みたいなことさえ知らずにこの映画を観る人間はそういないだろう。彼が自殺したことも知らなかったし(だから途中まで、どうして加藤和彦は出てこないんだろう、と思っていた)、作中に過去映像なのか一回だけ加藤和彦が出てきた気がするのだが、彼のことを知らないので「気がする」みたいなことしか言えない(他の出演者は、初出の時に名前と肩書きが表示されたのに、その人物だけ出なかったから、それで、恐らく加藤和彦なんだろうと判断した)。それに、結局最後まで観ても、「加藤和彦が何故トノバンと呼ばれているのか」も分からず仕舞いである。まあ、ファンなら当然知ってる情報だから説明されなかったのだろう。ちなみに調べてみると、スコットランド人のフォークロックミュージシャンの「ドノヴァン」から付けられた愛称なのだそうだ。

そしてこの加藤和彦、「♪あの、素晴らしい愛をもう一度~」の人でもあるようだ。「♪オラは死んじまっただ~」との差が凄いだろ。しかし、どちらの曲もキャッチーだし、他にも作中には加藤和彦が関わった様々な曲が使われているのだけど、あまり音楽に詳しくない僕のような人間でも「カッコいいなぁ」と感じるようなものばかりだった。2024年の現代に、「新曲だ」と偽って発表したら、若い世代も含め結構聴いちゃうんじゃないかと思う。さすが「日本の音楽史を変えた先駆者」と言われるだけのことはある。

そんな人物なので、本作に出演し加藤和彦について語る人物もまあ多種多様だ。坂崎幸之助、つのだ☆ひろ、泉谷しげるなどの音楽家はもちろん、コシノジュンコ、三國清三など異業種の人、さらに音声のみの出演も含めれば、坂本龍一、吉田拓郎、松任谷正隆と錚々たる面々である。彼らは一様に加藤和彦の才能を絶賛し、

【ワンアンドオンリーですよね】
【あんな人にこれまで会ったことがない】
【あれほど「イコール音楽」だった人はいないと思う】
【音楽だけではなく、ファッションも食も一流だった】
【凄い舌を持ってるなと思った】
【あの当時、圧倒的なセンスがあったし、同時代では頭一つ飛び抜けていた】

と、音楽面以外も含め、とにかく唯一無二としか言いようがない人物だったそうだ。

その唯一無二性は、彼ら(加藤和彦はバンドとして世に出た)がデビューした経緯を知るだけでも理解できるだろう。なんと驚いたことに、「♪オラは死んじまっただ~」の『帰って来たヨッパライ』が、加藤和彦が率いたバンド「ザ・フォーク・クルセダーズ」のデビュー作なのである。しかも、今で言うインディーズでデビューしたのだ。1967年当時には、あり得ない話だったそうだ。

というわけで、その辺りの経緯を書いてみたいと思う。

初代「ザ・フォーク・クルセダーズ」のメンバー(正確な理解ではないかもしれないが、「ザ・フォーク・クルセダーズ」はデビュー前に解散しているようで、メジャーデビュー後は、初期メンバーと人が変わっているんじゃないかと思う。少なくとも僕はそう理解した)は、男性ファッション誌『メンズクラブ』の「MEGA PHONE」というコーナー(「メガホン」という名の通り、恐らく、一般の人から公募する掲示板のようなコーナーなのだと思う)に載っていた「バンドメンバー募集」の広告を見て加藤和彦の元に集まった。そしてバンド活動をしていたのだが、メンバーの何人かが就職しなければならないとなり、解散を決めたそうだ。

しかし、解散するなら記念にLPレコードを録音しようということになった。当時、別のバンドが自主制作でLPレコードを作っていたことを知り、自分たちにも出来ると考えたのだ。また、彼らは京都で活動していたのだが、当時はやはりまだまだ文化の中心は東京だった。そして彼らは、「中央に対するアンチテーゼ」として、何か面白いことをやってやろうという気概を持って、解散記念アルバムを制作したのである。

さて、ここから少し話が飛ぶ。本作の冒頭は、2022年10月3日午前1時から放送された「オールナイトニッポン」の放送場面から始まる。「オールナイトニッポン」は1967年10月3日午前1時に始まったそうで、この日はちょうど55周年記念だった。そして、初代パーソナリティである斎藤安弘が一夜限りの復活、懐かしの「始まった頃の『オールナイトニッポン』」を放送していたのだ。

さて、その日のリスナーからのお便りの中に、「また『帰って来たヨッパライ』を流して下さい」というリクエストが届いていた。実は「オールナイトニッポン」と『帰って来たヨッパライ』は切っても切れない関係にある。というのも、「オールナイトニッポン」でこの曲を繰り返し流したことで、人気に火が付いたからだ。

『帰って来たヨッパライ』が発売された当時は、「オールナイトニッポン」も割と軌道に乗り、勢いもあったので、「面白い曲だったら、同じ日に何回流したっていいじゃないか」みたいな気分があったのだという。そういうこともあり、「オールナイトニッポン」では繰り返し『帰って来たヨッパライ』を流した。この時点では、まだインディーズである。しかし、爆発的な人気となり、レコード会社各社が「ザ・フォーク・クルセダーズ」にアプローチを試みる。

その時のことについて初期メンバーが語っていたのだが、とにかく自主制作のレコードが品切れで、売上云々ということより、ファンに申し訳ないという感覚だったという。だから、アプローチをしてきてくれたレコード会社の中で、最も早く発売してくれるという東芝レコードと組むことに決めたのだそうだ。作中では触れられていなかったが、公式HPによると、『帰って来たヨッパライ』を含むアルバムは、オリコン史上初のミリオンヒットを記録したのだそうだ。

こうして加藤和彦率いる「ザ・フォーク・クルセダーズ」は衝撃のデビューを果たすのである。

その後、『イムジン河』にまつわる騒動も面白かったし、「ザ・フォーク・クルセダーズ」がすぐに解散しちゃったり、しかしその後作詞を担当していた北山修とすぐに曲を発表したりと色んなことをやりつつ、今度は「サディスティック・ミカ・バンド」を結成した。本作はやはり、「加藤和彦についてそれなりに知っている人」向けに作られているので、まったく何も知らない僕は、こうして感想を書くに当たって調べて「へぇ!」となることばかりなのだが、この「サディスティック・ミカ・バンド」のドラムスを務めていたのがつのだ☆ひろなのだそうだ。

さて、この「サディスティック・ミカ・バンド」はイギリスでライブを行うまでになったのだが、その経緯がちょっと面白い。

本作にはまあ色んな人が出てくるのだが、「『Yours』という輸入雑貨店で学生時代アルバイトをしていた人」なんてのも登場する。「Yours」という店には芸能人や著名人がよく足を運んだそうだが、その中に加藤和彦もいたという。その元店員は加藤和彦に話しかける勇気を出せずにいたのだが、ある時ちょうどいいきっかけがあった。イギリスで発行された新聞に、日本でしか発売していない「サディスティック・ミカ・バンド」のアルバムのレビューが載っていたのだ。

元店員はこれはいいきっかけになると勇気を振り絞り、加藤和彦に話しかけた。すると、イギリスの新聞に載っていたことに加藤和彦は驚き、「これ、ちょっと借りていい?レコード会社に確認してみる」と言ったという。このやり取りが直接的なきっかけだったのかどうかは映画を観ているだけでは判断できなかったが(東芝レコードが外国のレコード会社にアプローチしていたから新聞にレビューが載ったのかもしれない)、いずれにせよ「サディスティック・ミカ・バンド」はイギリスでライブをするまでになるのだ。当時の日本人としてはかなりの快挙と言っていいだろう。

またその前に、ビートルズなど大物のプロデュースを手掛けてきたイギリスの音楽プロデューサーであるクリス・トーマスを日本に呼び、アルバム制作を行ったのだそうだ。加藤和彦もかなりの完璧主義者だったそうだが、クリスもなかなかのもので、東芝レコードでのレコーディング初日、スタジオ内の左右のスピーカーの出力がおかしいと言って、社内にある30個ほどのスピーカーをすべて集めさせ、その組み合わせを試しながら出力がある組み合わせを見つけるところから始めたのだそうだ。

さて、これも全然知らなかったので、映画を観ている時には「ん?」と思っていた部分なのだが、クリス・トーマスと仕事をしたことが、結果とした「サディスティック・ミカ・バンド」の解散に繋がってしまったそうだ。しかしホントに全然説明がないので、僕のようにまったく知らない人間には、事実関係を把握するだけで大変である。

まあそんなわけで、「サディスティック・ミカ・バンド」のヴォーカルだったミカ(加藤和彦と結婚していた)が抜けることになり、というか加藤和彦と離婚することになり、バンドも解散ということになってしまったのだ。さて、これもよく分かっていなかったが、この「ミカ」というのは、本名を「福井光子」というらしい。この「福井光子」という名前は、本作の冒頭の方で出てくる。「ザ・フォーク・クルセダーズ」の初期メンバーが、「加藤和彦との出会いは、福井光子のボーイフレンドとしてだった」と語っていたのだ。2人は学生時代に出会ったそうだ。

そしてその後、作詞家の安井かずみ(ずず)と出会い結婚、公私ともに支え合う関係になったのだそうだ。

まあそんなわけで色んな活動をしていたわけだが、個人的に興味深いと感じたのが「プロデュース能力」だ。何かで加藤和彦と関わっていた人物(何かのバンドメンバーと言っていた気がする)が、「『良いモノを発見する能力』が高いことを知っていたし、彼が進む方向に乗っかれば良いモノが出来ると分かっていた」みたいなことを言っていたのだが、まさにそんな感じだと思う。

中でも印象的だったのが、本作ではラジオの録音音源のやり取りとして出てくる、山下達郎と松任谷正隆の会話だ。山下達郎が、「どうして加藤和彦が松任谷正隆を連れてきたのか、未だに俺は知らないんだよなぁ」みたいなことを口にしたことで、加藤和彦の思い出話になっていくのだ。

松任谷正隆は、まだアマチュアだった頃、何かのコンテストに出たそうで、その時の審査員に加藤和彦がいたのだという。松任谷正隆は、「そのコンテストで勝ったんだか負けたんだか忘れちゃったけど」と言っており、コンテストの結果はさほど重要ではなかったそうだ。ただそのコンテストの時に声を掛けられ、数日後に初めてスタジオに足を運ぶことになったのだという。そこでピアノを弾いて1万3000円をもらったそうだ。

しかし松任谷正隆は、「これで終わりだろう」と思っていたそうだ。しかしその後また加藤和彦から連絡があり、「テイチクに来てくれ」と言われたそうだ。テイチクというのは、今もあるのかは知らないが、当時は有名な音楽スタジオだったそうだ。そしてそこに行くと、山下達郎がいたのだという。そんな経緯で松任谷正隆は、初めてのレコーディングが山下達郎という感じになり、そこから音楽家としてのキャリアがスタートしたのだという。

他にも面白いことを言っている人がいた。編曲家などをしているある人物は、元々バンドで演奏をする人だったそうだが、ある日レコーディングをするからとスタジオに呼ばれたのだそうだ。彼は当然、加藤和彦がアレンジをした曲を弾くだけだと思ってスタジオ入りしたのだが、当日加藤和彦から、「イントロがまだ決まってないんだよねぇ」みたいに言われたのだそうだ。そんなわけで、成り行きでアレンジをすることになり、その日から編曲家としての人生が始まったと言っていた。そしてまったく同じことを、教授(坂本龍一)も話していたのだ。恐らくだが、「こいつなら出来るだろう」と見込んだ人間に無茶振りをすることで才能を引き出そうとしていたんじゃないかと思う。まあ、ただ自分でアレンジを考えるのがめんどくさかっただけかもしれないが。

まあそんなわけで、語り尽くせないほどの才能に溢れた人だったんだなぁ、ということが伝わる作品だった。まったく知らない人物だったし、彼が主に活躍していたのが僕が生まれる前のことなので馴染みもないのだが、とても興味深い人物だなと思う。凄く背が高かったみたいだし、顔の感じも割と現代っぽいし、ファッションのセンスの抜群だったそうなので、本当に、2~30代の頃の加藤和彦が現代にそのまま現れても、結構すんなり馴染めてしまうんじゃないかという気がした。音楽性もきっと、今も全然通用するんじゃないかなぁ。凄い人物がいたものだと思う。映画としてメチャクチャ面白かったということはないのだけど、とにかく、加藤和彦という人間の魅力に溢れた作品だった。
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