ナガエ

怪物のナガエのレビュー・感想・評価

怪物(2023年製作の映画)
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良い映画だったなぁ、良くある物語、よくある構成、と言われればその通りかもしれないけど、その中でとにかく丁寧に物事を描き出していく。展開も上手いし、役者の演技もさすがだなと思う。

予告の段階から、印象的に出てくる「怪物だ~れだ」というフレーズ。まさにこのフレーズがピッタリ当てはまる、まるで万華鏡でも見ているかのような、見え方が変転していく物語だった。


『怪物』の予告編を映画館で初めて見た時から、この映画を観ることは決めていたが、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞して、さらに興味が湧いた。ただ別に、「脚本賞を獲ったから」というわけではない。

脚本賞を担当した坂元裕二が、受賞会見で、「いうも思い出してしまうことがある」と言ってこんな話をしていた。僕にはそれが、とても印象的だったのだ。

【昔、車で信号待ちをしていた時のこと。信号が青に変わったのに、前の車が動き出さないので、クラクションを鳴らした。しばらくして、横断歩道を車椅子の人が渡っている途中だったことが分かった。
その時以来僕は、「あの時、どうしてクラクションを鳴らしてしまったのだろう」という思いを消せないでいる。】

そしてそれに続けて、「人は、自分が受けた『被害』については覚えているものだけど、自分がした『加害』についてはなかなか認識できないものだ」みたいな話を続けていた。

僕も、「加害性」についてはよく考える。少し前に観た、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』では、決してそれがメインのテーマというわけではなかったけれども、「男性性であることの加害性」にも触れられていて、僕が普段から考えていることを改めて実感させられた。

「加害性」を意識することはとても難しい。それが、「声に出して訴えるほどでもない被害でもない」と被害者の側が感じてしまう「加害性」であればなおさらだ。被害者が勇気を出して声を上げてくれれば、その「加害性」に気づける機会もあるだろう。しかし、そのスタンスは甘えでしかないとも思う。「加害側」はやはり、「それが加害である」と自ら認識し、改めなければならないと思う。「被害が分かってからじゃないと分からないよ」なんていうスタンスは、傲慢だ。そんな認識でいるからこそ、加害者も被害者も減らない世の中が出来てしまうのだと思う。

さて、坂元裕二のそんな会見を先に見ていたので、『怪物』という映画についても、「本人がそうと意識していない『加害性』」の話なのかなとなんとなく想像して観ていた。

が、観ていくにつれ、そうではなさそうだということに気づいた。どちらかといえばこの映画では、「何もしないことの『加害性』」が描かれているように感じられた。

映画の設定と構成に先に触れておこう。物語の中心となるのは、小学5年生の麦野湊と、その母親の早織、そして湊の担任教師である保利道敏である。映画全体は、大きく3つのパートに分かれており、「第1部:麦野早織視点」「第2部:保利道敏視点」「第3部:麦野湊視点」で、ある始点から終点までの時間の流れを3視点で描くという構成だ。

そして、程度の差もあるし意味合いも異なるのだが、大雑把にいって、「麦野早織・保利道敏・麦野湊の3人は『何もしていない』」と言っていいだろうと思う。この点について詳しく触れると内容を結構ネタバレすることになるので深掘りはしないが、「何もしていない」の程度も意味も3人それぞれで異なるものの、大雑把にまとめればそう表現できることは、映画を観た人ならなんとなく納得してもらえるだろう。

そして、結局のところこの映画では、「『何もしていないこと』がもたらす『加害性』」が描かれているのだと、僕には感じられた。

つまりこの映画は、「誰もが誰かに対して『加害性』を発揮している可能性がある」と突きつける作品であり、だからこそ観客一人ひとりも無関係ではいられなくなると言えるだろうと思う。

そこに悪意や意図があろうがなかろうが、「何らかの行動をしている」のであれば、その「加害性」には納得しやすいだろう。自分でそれに気づくことは難しいかもしれないが、例えば誰かに指摘されるなどすれば、「なるほど、その行動が『加害』と受け取られるのか」という受け取り方も出来ると思う。

しかし、「何もしていないこと」からそれを感じることは、なかなか難しいだろう。

もちろん、「何もしていないこと」が分かりやすく「加害性」を発揮するケースは容易に想像出来るだろう。例えば、「目の前で行われているいじめを見て見ぬふりすること」などがそれだ。これなどまさに、「『何もしていないこと』がもたらす『加害性』」だろう。

しかし、この映画で描かれていることは、少し違うように思う。それは、言葉で表現するのならば、「誰かのことを想って、『何もしないこと』を積極的に選択している」ように感じられるのだ。

まあ、こうなってくると、「『何もしないこと』をしている」という解釈も成り立つし、そう受け取るなら、「何らかの行動によってもたらされる『加害性』」と同じだと捉えることも出来るかもしれない。まあその辺りのことはどっちでもいいのだけど、とにかく、「なかなか意識に上りにくい『加害性』」を描いているということは確かだと思う。

そして、そんな物語を、実に「日常的な世界」で描き出していることも凄いと感じた。もっとラフに言えば、「こういうこと、ホントに起こってもおかしくないだろうなぁ」と思わせる、絶妙な「日常感」があるのだ。

物語の始点と終点の落差だけから考えると、とても「日常感」の無さそうな物語に思える。冒頭こそ、「火事」という非日常から始まるものの、それ以降は、日本に住む誰もが同じような日常を過ごし得ると感じるような、「ザ・日常」としか言いようがない感じで物語が進んでいく。「第1部」で麦野早織は、息子・湊の周辺の「違和感」を色々と拾っていくことになるわけだが、それらにしても、1つ1つを取り出してみれば「大したことではない」と感じるようなものじゃないかなと思う。そういう、当事者じゃなければ「些細な」と言ってしまいたくなるような出来事を静かに静かに積み上げていきながら、坂道を転がる雪玉のように、次第に大きな展開へと進んでいくことになる。そして結果として、「なんか凄い事態になっちゃったな」というような話になっていくのだ。

ただし、積み上げていく要素がとにかく「日常感」に溢れているので、最初から最後まで「あり得そう」と思わせる物語になっている。

「怪物だ~れだ」という問いに答えるとするなら、観客の答えは2人のどちらかに集約されるんじゃないかなと思う(分からないが)。その2人が誰なのかには、この記事では触れないが、どちらも決してメインの登場人物とは言えない、ぐらいには言っておこう。映画で描かれる状況を直接生み出したのは「男性」の方で、まあ僕は彼が最も「怪物」ではないかと感じるが、映画で描かれる状況を悪化させたのは「女性」の方であり、彼女を「怪物」と捉える人もいるだろう。

そしてそれはつまり、「分かりやすく『怪物』っぽい人は、実はまったく『怪物』ではないかもしれない」ということを示唆していると言えるだろう。

そして、ここまでまったく触れずに来たし、ここからも具体的には触れないが、映画の後半でようやく「なるほど、そういうことなのか」と腑に落ちた要素もまた、「怪物」や「加害性」の話にも絶妙に絡んでくるものであり、物語全体の中で良い具合に収まっていたと感じる。こういう要素は、悪く言えばある種の「トレンド」であり、ファッショナブルに物語に盛り込んでくるようなケースもあると思う。しかしこの映画では、決定的に描かれることはないという程度に仄めかされるだけなのだが、しかし、様々な場面で謎のまま残されていた様々な要素が、この事実によって意味を帯びることになる。そして結果としてその事実は、映画全体で描かれる「加害性」とはまた違った方向の「加害性」に光を当てるものとも言えるだろう。

ある意味では、「すべての原因」と言っていいだろうその事実に、恐らく観客はしばらく気づかないはずだ。後から振り返ると様々に示唆されていたことに気づくのだが、僕は物語の後半に入るまで、まったくそんなこと考えもしなかった。そして、「その事実に気づかなかった」という事実こそが、ある種の「加害性」を示しているとも言える。まさにそれは、僕らが生きる社会の縮図のようなものだろう。「知らなかったから仕方ない」という言葉で軽々しく飛び越えていいことなのかという「問い」が、間違いなく観客に向かって投げつけられていると言っていいし、僕はそれを強く受け取ったつもりだ。

だから僕たちは、「ただ生きているだけで誰かに『加害』を加えているかもしれない」という意識を捨てずに、社会で生きていくべきなのだと思う。僕自身は、これまでにも散々考えてきたことだけれども、この映画で改めてそのことを実感させられた。

「第1部:麦野早織視点」の物語だけ、ざっと内容を紹介しておこう。

シングルマザーとして、1人息子・湊を育てる母・早織は、クリーニング店で働きつつ、息子と2人で平凡で穏やかな日々を過ごしていた。近くで火災が起こった時、彼らが住むマンションの上階のベランダから「頑張れー!」と消防署員に大声を張り上げるような母親であり、息子とは「ザ・母親」という感じではない、フラットな関わり方をしているように見える。
そんな早織は、日々少しずつ、湊周辺から「違和感」を掬い取る。脱衣所に散乱する髪の毛、片方しかないスニーカー、水筒の中から出てきた泥みたいなもの。「人間の脳を豚の脳に入れ替えたら、それは人間?」などと聞いてくるのも、なんだかおかしな様子だった。
ある日、夜遅くなっても湊が帰って来ず、早織は息子の友達に話を聞いて、廃線となった電車の車両に続く廃トンネルの中で湊を見つけて抱きしめた。その帰り道、湊は突然……。

ホントに、色んな部分で人物や状況を繊細に描いているし、「上手いなぁ」と感じる場面が多々あった。1つ、物語の本筋とはまったく関係ない部分で例を挙げてみよう。

保利道敏が付き合っている彼女(高畑充希)と家にいる場面。彼女の服を脱がそうとする保利に対して、「コンドームないんでしょ」と彼女が言うと、保利が「大丈夫」と答える。これに対して彼女が、「女の『また今度』と、男の『大丈夫』は信用しちゃいけないって、学校で教えてないの?」と口にする場面がある。

このセリフを口にした場面でも「上手いなぁ」と感じたのだけど、さらに後の方のシーンで、この時のやり取りを改めて「上手いなぁ」と感じさせるような場面が出てくるのも良い。

他にも、具体的には触れないが、なんてことない言葉だと思って意識していなかったセリフが後から繋がったりと、賞を獲ったから言うわけではないが、やはり脚本の上手さはずば抜けているなぁ、と感じた。

あと、これも具体的には書かないが、「そんなのしょうもない」とある人物が口にする、その後に続く言葉もとても良かった。その人物は、別のある人物が抱える問題の「本質」を恐らく理解してはないのだが、しかしその「そんなのしょうもない」に続く言葉は、ある人物の心に刺さっただろう。「確かに」と思わせる強さと普遍性を、平凡な言葉の組み合わせで実現してしまう辺り、さすがだと思う。

あとは、湊に対してもそうだが、湊のクラスメイトに対しても、「どうにか生き延びろよ」と感じざるを得ない。別に、生き延びて良いことがあるかはわからないし、彼らのような人間には辛さしかない世の中だと思うけど、それでも僕は、とくにクラスメイトに対しては、「他人から押し付けられた苦しさなんかにやられるな」と感じてしまう。それが他人から押し付けられた苦しさではないという意味で、湊は大変なのだが、クラスメイトはクラスメイトで、押し付けられた苦しさの中にいる。湊はともかく、クラスメイトの方はホントに、「そんなクソどうでもいいことにやられないでほしい」と願ってしまう。彼が、終始辛さを表立って見せない辺りも、抱えているだろう辛さを余計大きく見せるような感じがあって、「どうにか生き延びろよ」と願いながら観ていた。

撮影的なことで言えば、台風のシーンはどんな風に撮ったんだろうなぁ、と思う。気象条件そのものは、天気予報なんかを観て「台風待ち」をしたのかもだけど、それにしたって屋外のシーンが多くて、台風(あるいは豪雨)に合わせて準備するの大変だろうなぁ、と思う。あと、廃トンネルの奥のあの場面は、どうしたんだろう? CGなのかもしれないけど、セットだったりするんだろうか。なんにせよ、台風の場面は、特に撮影が大変だっただろうなぁ、という気がする。

あと、マジでどうでもいい話だけど、映画の中で「ビッグクランチ」って単語が出てくるんだけど、これを登場人物は「ビッグランチ」って発音してる気がするんだよなぁ。いや、ホントどうでもいい話だけど。

とても良い映画だった。スクリーンを隔てた観客に、「お前の話だぞ」と突きつけているような圧迫感があった。そして本来的にこの物語は、「この映画を観て『お前の話だぞ』と突きつけられていることに気づかない人」こそが受け取るべき作品と言えるだろう。そういう作品だからこそ、「是枝裕和」「坂元裕二」「坂本龍一」というビッグネーム、さらには「カンヌ国際映画祭脚本賞受賞」という肩書きに大きな価値が出てくるとも言える。そういう「外側の情報」で惹かれて観に行った中の一部でもいいから、「お前の話だぞ」という鋭さを体感してくれたら、世の中は少しずつ変わっていくんじゃないかと希望を持てるような気がする。
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