レインウォッチャー

怪物のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

怪物(2023年製作の映画)
4.0
子育て、学校教育、多様性に寛容性…色々な切り口が手前に並べられつつも、テーマ / メッセージ(のひとつ)はごくシンプルで、「真実なんてない」ってことだった。

いわゆる羅生門形式、湊(黒川想矢)と依里(柊木陽太)のふたりの少年にまつわるひとつの事件(といってよいのか)を、異なる人物の視点から3部構成で描く。
言うまでもなくこの構成が今作の肝であり、メッセージとも直結している。しかし最後まで見届けたとき、むしろそれでもなおその3部からあぶれた、つまり描かれなかった視点の存在にこそ気づき、その余白の広がりにしばし茫然としてしまう自分がいる。

校長(孫を轢いたのは誰だったのか?)、
依里の父親(あの痣は本当に父親によるものだったと言い切れるか?)、
保利(永山瑛太)の彼女(タイプがかけ離れて見える二人、どのような関係値?)…

気づけば「そういえばあれって何だったんだ?」という断片が床には散らばっていて、歩くたび足裏にちょうど無視できない程度の違和感を残す。彼らの物語はこれからも語られることはなく、そしてもちろん、わたしたちの周りにはそんな「映画にならない」物事のほうがずっとずっと多いのだ。
「テレビで見てるから嘘だってわかるんだよ」。母親にボソッと口にした湊の言葉には、今作の苦味が凝縮されている。渦中の人々にしか、あるいは当の本人にすらわかっていないこと。それでも、何らか外からの窓(それにはもちろん《映画》も含まれる)を通してしか、わたしたちは他者理解/共感し得ないこと。

真実なるものを証明するにはなるべく多くの側面が必要、ではどこまで集まれば満足なのか。この物理世界に完全な円が存在し得ないように、棘や歪み完璧に均すことはできない。自分自身すら、今この瞬間にも次々と過去になってゆく。
つまり真実は錯覚か幻想の中にしかないわけだけれど、人間は精神の均衡を保つため(楽になるため)に積極的に騙され、手近な真実らしいレプリカに縋り付く。劇中で保利をスケープゴートにして体面を繕おうとした学校の対処は、わたしたちが日々行う「健康な」心の営みそのものといえるだろう。

映画の中では、まさにそのような意味や価値の《変転》が無数に仕掛けられている。視点、タイミング、ロケーション等が移ることによって、ものごとは容易にその姿を変える(※1)。それは人物の言動もそうだし、拾いやすいところでは言葉の使い方にも表れている。

《ガールズバー》と《キャバクラ》。
《ドッキリ》と《いじめ》。
《遊んでた》と《殺した》。

意図的かそうでないかは別として、いずれにしても変換されることで少しずつ、あるいは大胆にニュアンス/印象は変わり、尾鰭背鰭やネジレの種になったりもして確実に沈殿していく。

そんな中で最もダイナミックなのは、とある場面で校舎に響く管楽器の音だろう。
不格好で、まさに『怪物』の哀しい遠吠えのようなその音は、第一部ではとにかく不穏・不気味なものとして届くのだけれど、続く二・三部ではまったく異なる機能を果たす。ここで漸く、ずっと出口が見つからなかったこの映画に細い突破口が開けられたようだった。そしてその後、すべてを押し流さんと台風がやってくる。ノアの時代から変わらない仕事を果たすため、音に呼ばれたのか。

そう、「真実なんてない」。しかし今作はただ諦めや絶望で終わるのではなく、「なかったとしても信じるべきもの」の泡沫を嵐のあとに残す。
生まれ変わったら何に?と問い続けていた彼と、『品種改良』の作文を書いた彼を、これほどあらゆるものが脆弱に変わりゆく世界の中で、変わらないそのままの姿で向こう側へと逃がす。ここにおいて、やはり映画全体のエネルギーが大きく反転して、前へと《変わる》のだ。

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色々と書いたけれど、まずは単純にやりすぎなくらいの映画戦闘力に舌を巻く。画も音も顔も詩も、挙げ出すとキリがなくてお盆くらいになっちゃう。

特にやはり第一部だろうか。母親vs学校側のあの密室会話バトル、「いや笑っちゃいけない、むしろ怒るべき」と思いつつどうしても無理だ。がまんできない。噛み合い過ぎた負のスパイラルは笑いを連れてくるのだ。
東京03角田が居るからってのもあるんだけれど…これ、ちょっとトーンを変えればそのままキングオブコントの決勝で戦えるでしょ。

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あとは進め方の巧さ、この形式ってともすれば「同じことを何回も観てダルい」に落ちる危険性が常にあると思うのだけれど(『最後の決闘裁判』すら多少)、今作は冷徹ともいえるドライさで緩みを回避している。

特に大人視点の1・2部、シーンごとにこちらの予想より早く時系列が進み、コントロールが効かないまま事態が深みにはまっていく感覚。寄り添い過ぎず、観る側は翻弄される大人たちと同期する。
続く3部では、子供視点になってからは時間の進みかたも少し変わるようで、主体となる子供の時間に合わせているようだし、ここに今作の優しさがあるようにも思う。

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主演の2人はむろんすばらしい、ただ是枝映画の子供という観点で観るとかなり演出されているように思えた(もちろん必要なものとして)。そういう意味では、周りの自然なガキどものほうに強く是枝みを感じたり。

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※1:そんな中、火事の雑居ビルはある意味で不変な軸として、モニュメント的に中心に鎮座しているイメージ。