レインウォッチャー

マッドマックス:フュリオサのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
かつて『ジョジョの奇妙な冒険』の作者・荒木飛呂彦氏が、人類最古の職業とは物語を聞かせる《語りべ》ではないか?と書いていたことを思い出す。(※1)

なぜならこの『フュリオサ』は、確かに世紀末爆走車伝説『マッドマックス』シリーズの最新作であり、傑作『怒りのデス・ロード』の『怒り』のルーツを辿る前日譚であり、一生分のエンジン音を聞かされ散らかす映画であるのだけれど、同時にそしてそれ以上に、受け継がれる神話の一ページとしてじっくり色濃く描かれた《語り》が染み渡る映画だったからだ。

『怒りのデス・ロード』も、いわゆる神話的・英雄譚的でシンプルな「行って帰ってくる話」と言われていたけれど、今作もまた同じような基本構造を持っている。ただ異なるのは、今作が5章に分かれていて、その度に「行って帰って」を繰り返すということ。

その「行って帰って」を並べて眺めてみると、各章を貫くいくつかの流れに気が付く。
ひとつは、移動のダイナミクス。もうひとつは、フュリオサ自身の変化だ。この移動=旅にしても、変化=変身にしても、とても神話らしいと言える要素で、かつそれらが映画としての面白さにも直結している。

移動に関しては、基本的にはカー/バイクチェイスを繰り返す話なので、自ずと拠点間つまり水平方向の移動が発生し、映画は常に動き続ける。
『怒りのデス・ロード』ほどの圧倒的に特化したスピード感(※2)は失われたものの、それでも150分飽きずに走り切れるのはこのフロウがあるからに他ならないだろう。(お尻痛いけれど。)

ここで同時に着目したいのは、垂直=上下の移動も発生していることだ。
少女時代のフュリオサ(A・ブラウン)は、母親の仇・ディメンタス(C・ヘムズワース)の手元から、取引によってイモータン・ジョー(L・ヒューム)の支配するシタデル砦へ渡る。この際は《上層》に迎え入れられるのだけれど、一度はそこから脱出し、身分・性別を隠して労働者の身へ。つまり《下》へと動く。

その後、フュリオサ(このへんで演者がA・T・ジョイにチェンジ)は役職を経ながら再び「のし上がって」いき、重要なドライバーの役目に就く。更に紆余曲折があって、終盤で彼女は《地下》に葬られようとするところから再び「這い上がる」のである。
このような水平・垂直両ベクトルの組み合わさった動きが、ともすれば単調な繰り返しになりかねない今作に立体的な魅力を与えている。フュリオサが今どの座標にいるのか?が、そのまま映画全体の起承転結やスリルの在り処を表しているようだ。

そして、そんなフュリオサは章を経るごとに姿を変えていく存在でもある。
初めは少女だった彼女が、ディメンタスに娘替わりに囚われてからは服や髪の色もディメンタスに近くなる。その後、一度は髪を落とし(=女を捨て)、信頼できる警備隊長ジャック(T・バーク)と出会い正体を明かすときには再び長髪へ(=女へ戻る)(※3)。更に終盤には満を持して「あの」ヴィジュアルへと到達し、《死》そのものの化身となって仇敵に迫っていく…というように。

ここにおいて、フュリオサの変身と移動のダイナミクスの頂点がきっちりと重なっているのが本当に見事だ。というのは、どの移動においても基本的には「追われ」「逃げ」続けていたフュリオサが、この最終形態になって初めて「追う」側へとまわるからだ。
ディメンタスにしてもイモータン・ジョーにしても(=権力者の男たち)、彼女をあくまで自らの所有物として扱っていた。その呪縛からついに意志のパワーで飛び出した反動のカタルシスは、最終章におけるフュリオサの疾駆を倍の速さ・熱さに感じさせることだろう。

また、フュリオサと連動してやはり変身する存在がディメンタスだ。彼も、場面によって髪の毛が茶→赤→グレーと変わり、身に着けているクマのぬいぐるみの位置も背中→胸→腰へと移っていく。
メンタル面も対照的。怒りと希望が一体になった炎を燃やし続け、不屈の強さを身に着けていくフュリオサに対して、序盤ではあんなに威勢の良いマッチョだったディメンタスは、諸々の失敗を経て徐々に自棄的な一面を見せる。フワフワしたぬいぐるみがついに腰(股)に来た時の彼は、まるで去勢されたようにも見えたりしないだろうか。

この二人の構図は、そのまま近現代における男女史になぞらえることもできるだろう。権利のため戦い続けてきた女たちと、《男らしさ》の権威を剥がれて縋るものを失ってきた男たち。

しかし重要なのは、今作がその先をちゃんと示していることであり、まさにフュリオサの復讐劇の果てと重なってくる。対話を経て明らかになる、フュリオサとディメンタスの《喪失》という共通項。確かにディメンタスは贔屓目に見ても外道といえる人物だけれど、フュリオサ(女)は「奪うこと」や「排除すること」では真の解決に至らないことを知るのだ。

果たして、彼女が選んだ道とは…
この結び方には、今作が神話たる所以が凝縮されている。

この映画を最初に語りだしたのは、そして最後に語り終わったのは誰だったか?それはヒストリーマン、つまり《語りべ》だった。
種々の神話・伝説・民話…の類がそうであるように、あらゆる物語は「語り継がれたがる」し、その都度変化したがる。誰が活躍して何が起こったか、結末はどうだったか。それは常に諸説あるものだから、今作で一応の《真実》として語られたバージョンが事実だったかは誰にもわからないといえる。砂が昼に夜に見せる風景のように…

ただ大切なのは、今作の物語を経たから(もっと言えば、ディメンタスという悪漢にしても、ある意味で彼が居たからこそ)フュリオサの精神はこの境地へと到達して、やがて『怒りのデス・ロード』に続くということである。果実は、次の根になる。
この、《継承》の貪欲な推進力こそが物語の本質であり、人が選んでいくべき道でもあるのだ。前の世代などから引き継がれた良いものも悪いものも(※4)、どう使うか・次へ託していくか(どんな物語として話していくか)は自分次第と決めるということ。

ここで最後に、G・ミラー監督が『怒りのデス・ロード』と今作の間に作った一本の映画『アラビアンナイト 三千年の願い』(※5)を思い出そう。
長年閉じ込められていたランプの魔人と文学論の女学者が出会い、長い永い思い出話の交換を通じて本当の願いごとを一緒に探していく…という内容。『マッドマックス』シリーズほど話題にはならなかったけれど、《物語》の呼び起こす人同士の共感や、説話体験による癒しといった役割をあらためて語る芳醇な作品だった。

この作品を踏まえて観ると、なぜ今作が『怒りのデス・ロード』と同じようなノリの映画にならなかったかは納得できる。G・ミラー監督御年79さいは、ここにきて誠実な《語りべ》たらんことを選んだのではないだろうか。冒頭の荒木先生の言葉にあるように、世界が滅びかけても《語りべ》の役割は残る。(※6)

今作の後では、『怒りのデス・ロード』もきっと変化する。なぜなら、あの物語もまたとある一章であったことに気付くからであり…地平へ伸びていく道のあらゆる可能性が、わたしたちを次の物語へと掻き立てるからである。

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※1:『ジョジョの奇妙な冒険』コミックス第16巻の前書きより。そしてもちろん、ジョジョも継承のサーガなのだ。

※2:なにせ体感ゼロ秒。
https://filmarks.com/movies/56770/reviews/83155068

※3:またこの際、フュリオサは母親とも同化する。「炎を背負う」試練の再現によってその瞬間は表され、その後母親の特技でもあった狙撃の技術を発揮しだす。ここは今作の中でも特にエモーションが高まるシーン。

※4:母との約束は、希望か呪いか?ディメンタスやジョー、あるいはジャックやマックスとの出会いは、不幸か宿命か?

※5:後味が長く、観た直後より思い出すたびに好きになる映画。
https://filmarks.com/movies/85471/reviews/150541338

※6:この発想は、『マッドマックス』3作目の『サンダードーム』からも感じられる。