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マグダレーナ・ヴィラガのニューランドのレビュー・感想・評価

マグダレーナ・ヴィラガ(1986年製作の映画)
4.2
✔️🔸『マグダレーナ・ヴィラガ』(4.2)🔸『クイーン・オブ・ダイヤモンド』(3.7)

 一年半前までニナ・メンケスなんて、何となくその名は、程度で殆んど知らなかったので、そのままなら本作も観る事はなかったろう。しかし、観始めると、どうにもショボく、興味のきっかけ作品を裏切る感。16㍉作品の極々低予算。狭い場や堅そうなテーマが平板に塗り込めれるだけ。中身も当時流行り?の売春だが、生真面目一方で、主演女優は脱いでもくれない。しかし、客をとった時の感触なし無表情が、男たちの機械的で自己本位力任せの突いてくる動きにフレームから、ギシギシ痛さだけを現すように細かに強いスピードで出入りする、が繰り返され挿入されてく。それはやがてひときわ白目が冷たく光り続け、無機質な不穏さを強めてく。その次には反射的に起こし拒むかを表す手の動きとこわばりが、無力の自覚の不可能を示してゆく。それは、悲惨さや反撃期待を促すドラマの中のものではない、と内からのものが伝わってくる。フィクションを超えた不定形の絶対が透け見えてくる。
 1980年代中盤米は、子供から青年向けのSFのブロックバスター作品の席巻が、定着化しようとした頃だが、一方でメインストリームを外れた、いかにも見栄えのしない、渋くもみすぼらしい低バジェットでまるで世界のニーズが期待しない分野を、独力だけでの開拓が見られた頃だった。低予算のアルトマンやスコセッシのコメディ、独立プロ最先端のジャームッシュやセイルズら。本作もその流れの中心の、映画の不自由さや観客の嗜好を恐れない、実に凄い目標をガムシャラに成し遂げた作と分かってくる。
 基本、というか印象的に、狭く地味な場の凡庸タッチ示しを何回も繰返し組合わせてるだけの、イージーな作である。細かい髪型や、黒・藍・橙の其々一色営業用ドレス、宗教画付きやフランクさでも違うやはり寒暖色の対照的部屋、を変えてく推移というか、時制が入り交じるのか、また前のが登場交錯してくような作、単純に同じような繰返しで一人の売春婦の生態捉えの、余裕もない展開だけ。長め固定めの図の平板めを通し、アップから先のCU寄りカット移行はあっても、客に併せ少しパンするだけ。掴めないシーケンスの区切りか長いBOやボケ画面も挟まる。
 しかし、無意味にも思える、性や宗教に関わる、並行して挟まる余話が、其々に何回も変に絡んでくる。同業で親友の娼婦と、ハッキリさせたい問いかけや虚ろで個人的広い答え。狭い一室のベッドと椅子での向き合い、壁のと低い所からの灯が炙り出す休憩室?、縁に並び腰かけてのプールで。3人にも増え、1人になったヒロインはパゾリーニ的な荒野でもう1人の名を叫ぶ。作品を寓話や一時例に留めなくして、低い地盤からいつしか迫りくる。似てより展開節目を示す、冒頭と途中ら挟まる、逮捕されてからの刑務所とその中の神父語る教会やイエス像聳える独房。作品全体に外から問いかけるので、これも時制無視しては、前の時制まで声が被ってなど、外形を超えて、往き来する。はっきりキレも持たない交錯は、精神的な、ドラマを越えた希求に沿っている。何かを揺るがしかねない、変革も予感させてく。殺人自体は当ケースか、別ケースの様に、脇の人物が無機質に血を流れ出させる、描写が。
 実際、それらと他の売春ホテル以外シーンでは、浮上が可視化されてきて、カメラが気づかれず普通に効果を柔らかく、またはトリッキーを表して動き刻まれてるパートも持ってくる、間置いて同じようなもの繰返しも。抱かれての視界切返しパンでの、壁や天井の空想的ステンドグラスや宗教画。切返しや寄り退きのカット変えは特定のシーンであるし、緩やかなズームも時に。冒頭の刑務所檻から出されてくヒロインの半主観含み手持ち背めフォローや、90゜変の形取ってく刑務所や娼館での廊下らの(低い)縦図のシャープさ、以外もあるが、全体は地味で厳かなものが沈殿めなだけで、いつしか強い塊りの真摯な突き抜けの基盤ともなってくる。やがて、それらの裏面反転にも見え、作品を動揺させる、激しさが突然挟まってくる。2回同じものが、間を置いて角度を変え繰り返される。巨大な鏡に囲まれた飲み客もいる、多くの人が詰め込まれうごめくダンスホールでのヒロインの逮捕シーンでの、実にガチャガチャ不規則なぶつかり伝わるカメラの人にあわせての揺れ動きと細かい断片積みカッティング、その長い続きの異常さと熱の突然屹立。この激しい方のタッチのもうひとつの場は、刑務所内の教会のミサから、叫び恐怖にまみれて外へ逃げる女囚の信者らの姿の捉えに。
 この激しさを内的に誘導したのは、漫画的にも見える、調子にのり過ぎたような、突拍子もない啓示の有無を言わせない張りか乗っけの表現選択だ。突然務所内のミサの途中、それを遮って立上がり、悪魔主義なもの標榜宣言の自身真っ当の先のつもりでがなるヒロイン、その頭上に、炎浮かび固定される、いかにも安っぽい特撮合成の突抜け方で、それは本作のメインイベントの、作中の殺人事件匂わせ実行のメイン動き流れをも抜けてく。プールサイドの二人にも悪魔の大小翼がいつしか生えてる不気味も超然シーンへも繋がる。観てる側は馬鹿馬鹿しさよりも、瞬間の圧倒痺れを感じてくる。あくまでもっともらしく、などないセンスで。
 正におそるべき小世界の歪みからの、正攻外さぬ見詰めと、そのままの更に歪んでもいい広い取り出し処理で、一貫した何かの力が貫いてくる。最近偶々久し振りに話題になったのでアッケルンからインスパイアされがちだが、寧ろかなり前に見たピアラ晩年作に似て、よりこっちの方が見かけに反しブレてない。神への親近・愛への信頼の転換の悪魔主義、性への拒みと無化からの個の溶解、はラスト近くの、イエス像の遥か下の通じない位置こそを、いるべき安住見出だせる場とし得た、縦の強い図の仮締めで、背徳でも腐敗でもないと、視覚的にも収めら極る、センセーショナリズムを押さえ込んで。
 「好きな事は?」「いるべき場所にいること。でも今いるのはそこではない。それが嬉しい」「三回唱えれば魔女になれる(。この教会に混乱引き起こしても)」「こここそがいるべき場」/「男の肉体の受入れには相容れない感覚しかない」「地位のある俺の命令には、誰でも従え縛ることが出きる、お前も俺を好きだろう」「イエスでノー。名前も知らない遠さ、知ったら興味を失う。そしてグッドバイ」/「曾ては愛の存在を信じていたし、それを実行してた」「今、男らは出て行くだろう。しかし、戻ろうにも帰れない」「神は近くにいる。経血や性器は神との絆。神の相似形が人」「馬鹿な、アソコはアソコ」/「誰がどの男を殺るか」「彼女は殺人を犯してはいない」「そこにある椅子を認められないのか」「私達、3人は、姉妹であって姉妹ではない。母か父が違う、いや、其々が孤児院育ち」「クレアー!!」/「私はこのホテルの支配人で殺人事件に駆けつけ通報したが、娼婦らが使ってるらしい事だけで、名前も知らない」/「花は同じ正体に、ゆきあたる」//観終わって書き上げてこの作については終わりとしてたのを間違って消去して、何日か経って思い起こしての文章なので、感動と細部はかなり欠落したと思われる。似せたつもりが、思い出せなかったり、脱線したり、クレアでよかったっけ。
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 そして、この作家を知ったきっかけの次作、まさにそれ、『クイーン~』も併せ見るが、修復でより円満に綺麗に整えられてて、技法や美、ペースや懐ろの見事さを感得するも、何かその分、危なさが薄れて感じられる。それでも見事だが、1作目の重さ・引き裂かれ方からも、センスの良さの方が浮き上がってくる。
 しかし、味わいはより深い。そして、より本来のスタイルからのヴァリエーションが美しい。主演の監督の妹さんは、常連でスタッフとしても片腕的存在なのを、先に語った作品を観たことでしっかり実感する。空気に取り残されキャラは、持ち前の形であり、もう1本よりも、オシャレで軽いフットワークを楽しんでる余裕が改めて心地いい。そして表立ってはともかく、女性だけでも、鉄道レールから現れて、黒人大家や、主人公隣室の喧嘩うるさいが婚約者同士を画面に引き出したり、ユニークな家やその主人の背景を小さく歩く等の、別流れを作ってる、正体は不明の女の存在始め、複数流れが存在し、オープンで捻れた展開を楽しめる。 
 表現スタイルも先に言ったように、ベース踏まえと軽やか拡がりが、何段も見事になっている。天井ネオンも限りなく賑やかテカるカジノのルーレット周り、建物前の砂漠めと看板ある舗道、湖畔、椰子ら変な植物と併存の砂漠のユニークな形状の家、盛大な車やその主人も、施設やアパートの外形や階段廊下辺と各室内、陽炎も立つ鉄道レール辺、ら少しのパンだけの固定め退きめの、シンメトリーや必要越えて整えられた、1枚図の並んだ印象。太陽下や輝かしいネオン下で、色彩やヌケがくっきりカラフルスマート連ね。光量による鮮やかヌケかも知れず、個室内の廃れ色感は16㍉かもの気もするが、スーパー16等機材や周り環境は前作より、美もスケールも不自由感なく、格段にアップ。そしていつしか気づかれず、一般映画のデクパージュにも発展してるが、ベースから離れてないスタイリッシュも守ってるスマートさと伸びやかさが淡く続いてる。【未完】
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