ヤマダタケシ

夜明けのすべてのヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

夜明けのすべて(2024年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

2024年3月 テアトル新宿で
・『きみの鳥はうたえる』くらいから三宅唱作品は、人同士が徐々に関わって行くことと、その関わりにいずれ終わりが来て、次の場所へ人々が進んでいく事、それをどう受け止めるか?を描いていた気がする。
└しかしながら、それはだいたいの物語、映画作品がそうなのでは?という感じもするが、三宅監督作品はその関係性の変化をアクションで見せることが上手いからこそ、余計にそう感じるのかもしれない。
└また時間が流れる以上、関係性は変化していく。その果てに別れは来るのだが、別れの後にある何か?を主人公がどう受け止めるかを(別れを受け止める、というような単純な事でも無い?)ずっと描いてもいるような気がする。
→特にきみの鳥、ケイコの2本はラストシーンでの、それまであった関係性の、大事な時間が終わった事を突きつけられた主人公の、その表情が印象的な映画であった。
→何となくであるが、別れを突きつけられた時に、はじめて自分が気付けていなかったその手前にあった関係の、何か大事な部分や、自分の気持ちに気づくというのがここ最近の三宅唱作品だったように思う。
→しかし、きみの鳥やケイコを見ても終わってしまった後に対して主人公がどんな納得をしたのかは分からない。少なくとも分かりづらかった。
→ただ、今作はその人同士が関わる、離れて行くという事に対して分かりやすいくらいに答えを出していたと思う。

・さっきも書いたけど、三宅唱作品は何人かの人間が関わって行くこと、それによって起こる心境や関係性の変化をアクションで描くのが本当に上手い監督だと思う。
└今作は特に監督の前作・ケイコを発展させたようなことをやっている作品だと思う。前作・ケイコでは、聴覚障害のある女子ボクサー・ケイコが、ジムの閉鎖・試合に向かっていく中で、周囲に対して頑なさを持っていた彼女が少しだけ心を開いて行く過程を描いていた気がする。(個人的にそれはボクシングという一対一で向かい合った相手に対する向き合いの視点から、少しずつ周囲に視点が広がって行くことでもあった)
└そして、その点で言うと、今作の山添というキャラクターとケイコは、新しい環境を受け入れられずに頑なになっているという点で似ている気がした(というか今までの三宅唱作品は、周囲に対する頑なさを持っている人物が主人公になることが多かったと思う)。しかし、今作は山添ともうひとり藤沢というキャラクターを主人公にすることで、ふたりの距離感の話、なんなら山添に踏み込んでいく藤沢という視点から物語を描いていた気がする。

・話が元に戻るけど、改めて三宅監督は関係性の変化、親密さをアクションで描くことが本当に上手い。
└特に今作は、周囲に対する頑なさを抱えている山添に対して、少し人へ詰めていく距離感が近い平山のアクションが、そのまま関係性の変化を描いていたように思う。
→印象的だったのが、職場でパニック発作を起こしてしまった山添に平山が付き添うシーンのトンネル。トンネルの手前で山添は「ここまでで大丈夫です」と言うのに対し、平山は一旦帰ろうとするも、やっぱり気になってコンビニで水や食べ物を買って山添の家までついて行く。トンネルとは映画的にもかなり境界になるものだと思うが、それを乗り越えるアクションが、そのまま関係性を一歩踏み込むアクションになっている(この後のお互いの特性について話すシーンの、山添の「お互いにって、僕と平山さんの症状って違いますよね」の後のやっちまった、というような感じが、まだ山添が他人との距離感を掴みかねている感じと重なった)。
→またこの後、パニック発作で電車に乗れない山添のために平山が乗ってない自転車を届ける→家に入るという流れは、やはり玄関という境界を超えるアクションであるし、その後にある髪を切った際に失敗して爆笑というシーンが決定的にふたりが打ち解けた瞬間として描かれていたように思う。
→このシーンで髪型が変わってから、今度は山添も平山に近づいて行こうとするアクションのターンになる。それはイコールで、平山の特性について知ろうとすることでもある。
 そして、今度は平山が体調を崩して早退した際に、今度は山添が平山の家へ忘れ物を届けに行く。その際に山添が持っていくエコバックは平山が山添に付き添った時のものであり、これが前半の平山→山添へのアクションの逆であることが分かりやすく示される。
 そして、平山の家に向かう際、自転車に乗った山添の顔に当たる夕日のまぶしさが美しく、まるで山添が希望の方へ向かって行くような感じがある。
→平山の家から戻ってきた山添がはじめて職場にお菓子を買っていくというのもとても良い。つまり平山との関係性の変化が、そのまま職場の人達との関係性にも影響しているのだ。

・そして、この徐々に相手に踏み込んでいくようなアクションの間にある境界は、そのまま障害等特性を持った人にとっての現実の社会にある段差や障害でもあったと思う。
└思えばケイコでもそうだったが、何かしら障害を持ったキャラクターを中心に置く事で、〝普通〟に見えていた社会そのものが、その人にとってはどう見えるか、どんな障害が社会の側にあるかを描いている気がする。
└今作で言うと、山添が電車に乗れないシーンや平山がヨガ教室でキレてしまうシーンなど、〝当たり前〟の場所においても、人によってはそこにいることを難しくさせるような境界が存在する。
→また印象的だったのが地震からの停電のシーン。唐突に日常の中に地震のシーンが入るのは何故?と思って見ていると、その帰り道のシーンで平山が「山添君は停電になっても大丈夫なんだね」と言う。それは停電と言う出来事も山添にとっては大きな引き金になる可能性、そういうものとして停電を捉えている平山の視点が山添に寄り添ってる事をサラッと描いているものだったと思う。
→だからこそ、今作において関わり合うふたりがそのお互いの境界を越えて行くアクションが際立つのだと思う。

・そして、今作においては、山添と平山のふたりを中心に描きつつ、その周りにいる人々の事情や過去もそれとなく描かれていく。
└今作がとても良いのが、その事情や過去をチラッと描きつつ、それを持つ人物がどう思っているかはアクションで見せ、観客に想像させる部分にあったと思う。
└特に、ふたりが働く会社の社長や、山添の元上司は自殺で肉親を失った人物であることが示される。そのふたりにとって、山添や平山の変化がどう映っているかというのも、この映画の想像できる豊かさの部分だったように思う。

・そして、この山添の元上司、栗田化学の社長、その自殺してしまった弟を描くことで今作における〝別れ〟は究極のところでは死別も含めたものになる。
└だからこそ、今作において最後のプラネタリウムのシーンが際立つ。それぞれが暗闇の中で孤独に光りながら、それぞれがお互いが光っている事を目印に進んでいく。
 だからこそ今作において、平山と山添は、転職する・残るで別々の土地へ行くが、遠くにいても一緒に過ごした時間があるからこそ、その相手の事を目印に、暗闇の中で生きていけるのかもしれない。
→プラネタリウムのシーンでは、それまでの登場人物が星空を見上げるが、星を見上げる彼らもまた、ある意味でそれぞれがそれぞれで生きている=光っている星として描かれている気がした。
└しかし、死別がある。それに関してこの映画ではプラネタリウムのアナウンスで消えた星も、誰かを導く目印の光になっているかもしれないと示す。それは作中に置いては、亡くなった社長の弟の残したメモだったりするかもしれないが(山添、平山が社長に寄り添って行く話でもある)、メタ的に見るとその人やその場所自体が無くなっても、その姿を捉えた光だけが残って誰かを導くかもしれないというのはそのまま映画のメタファーでもあった。

・今作とケイコは意識的に変化していく時間を描いた作品だったと思う。どちらの作品も、間に電車が画面の中を横断していくシーンがあり、それは左から右へ変化していくことを表わしていたように思う。

・またワイルドツアーから、変化していく人々が過ごす場所そのものを意識的に描いている気がする。特にケイコと今作は顕著。
└ケイコも今作も、普段賑やかなその場所に人が居なくなった時のカットが入る。
└またケイコも今作も、どちらもインタビューという形式でその場所自体の歴史を語るシーンが入る。なんとなくケイコのボクシングジムも栗田化学も古びた、昔ながらの建物であるが、その中に人の営みがあり、時間が蓄積されていることを描いているような気がする。
→そう感じるのは、その場所にいるモブのようなキャラクターもちゃんと印象的に描かれ、かつ何気ないその場所の風景みたいに撮ったカットの中でも細かい演技が描かれていたりするからだろう。奥の会議室で議論が白熱してたり。


・三宅作品の名前をつけなくて良い関係性
・マジで普通の人としてダブルのルーツのキャラが出てくる。
・前作に続いて働く事の映画だったとも思う。
・優しさだけの世界の話ではない。