まず、 先生:Deir Yassin の村人(デイル・ヤシーン事件)はアラブから逃げてきて、ユダヤ国建国を可能にさせたと。 Safwatの意見というのは:1948年虐殺から(Deir Yassin 村人のように、)逃げてきた。ユダヤ国建国を正義とみなすのか?これはシオニストの歴史観であって、本当の話じゃないよ。ユダヤ人は我々パレスチナ人を『イスラエル・アラブ人』と呼んでいる。ユダヤ国家は我々を取り除きたいんだよ。(現状ではこれはすでに、ネタニヤフが国連でアラブとイスラエルで発表している。ネタニヤフの構想にパレスチナはもうない。)これがイスラエル政府の目的である。そして、Safwatは家族が追放され、虐殺された経験を教室で話し始める。(征服され、追放された人々の気持ちは、侵略戦争を思い起こさせるね)「祖父母の兄弟は殺された。祖父母はEin Hod に逃げていった。祖父母のもと住んでいた家には英国の芸術家が住んでいて、我々は一歩もその自分の家に近づけない。 両親の家は壊されて、We are leftovers of an ethnic cleansing だという。そして、私たちは、学校の歴史で、イスラエル占領軍の成し遂げたことを勉強しているんだよ。」(アッパレ、その通り、この反骨精神の強さが気に入った。それに、このようなストーリーはドキュメンタリー映画でよく見るシーン。もちろんシオニストのドキュメンタリーじゃないよ)
ここで興味を引くのが、主人公Tamer (マフムード・バクリ)とSafwatとの対比。これがうまく描かれている。主人公Tamerは信念を曲げない気骨のある高校生としては描かれていない。イスラエル体制に憧憬しているようにも描かれていないが、よく言えば、自分が定まっていない.....彼の父親は将来のあるTamerにパレスチナ人のアイデンティティーにとらわれず、成功して欲しいから。父親は (Amer Hlehel),息子の Tamerをサポートしているが、「 to steer clear of politics」と。この意味は過去の歴史(70周年記念のアクバ)を持ち出してイスラエル政府に盾をついてほしくないから。他にも深い意味があるのが映画の最後の方でわかる。Tamerが父親と仲間(仲間の間でも自分が揺れている)との考えが極端に違うが、解決策が見つかっていないから、どうしたらいいかわからない彼の様子がうまく描かれている。
ここでSafwatに戻るが、仲間はタバコを吸っているが、彼は死にたくないと言って吸わないという種に交わらない態度が立派である。パレスチナの旗を挙げに深夜学校の屋上に仲間と忍び込むシーンがある。皆で梯子を順に登っていくが、Safwat がI am scared of being close to the edge。というシーンで、私の判断はイスラエル国の公共機関である学校にパレスチナの旗を挙げるのが怖くなっていると。しかし、彼は梯子を登る時点で、震えていたんだよね。、俯瞰で見ることができないんだよね。高所恐怖症だと自分で言ってるから、旗を持ってポールにも登れない。しかし、個人的に、イスラエルに対する恐怖感と高所恐怖症と捉えていた。
Safwatはここで旗が好きじゃないと言ってる。理由は旗に誇りを持っていない。ただのツールのようだと。( It's more like a tool.) 一枚の布に色が付いているだけだと。(なあるほど。)父親が言っていたということで、「解放運動の始まりは旗を掲げる。でも、最も気高い最高の解放運動は旗を燃やすことだと。」これはかなり前に言っていたことだと、過去の話だったようだ。(私はかなり前から同じ運動が続いていて、将来性がないのではないかと理解した)