冒頭の、満開の桜の枝越しに俯瞰で撮る江戸の往来の絵とかね。この、「……越しに撮る」の一つ取っても、撮影手法の次元から往年の時代劇へのオマージュが止まらない映画とはわかります。ああ、ここは溝口のあの映画、これは黒澤のあの映画、これは山中貞雄のあの映画……といった具合に、その目配せの一々に感応するのも見手の楽しみの一つではありますが、楽しみが楽しみであるためには、肝心の作品そのものが得心されなければいけません。一歩間違えると、そんなことより、オメェさんは何がやりテェんだい、となってしまう。
時代劇の草彅剛自体を否定するつもりは毛頭ありません(ああいう狐顔の武士の需要はあると思います)。ただ、どうしたってその身体性は問われるんじゃないでしょうか。ジャニーズご出身の方々って、そもそも小柄ということもあるのでしょうが、お顔にしても身体にしても、歳を重ねても子どもっぽさがついて回るといいますか。夜中に諸肌脱いで身体を拭き始めた柳田(草彅剛)を見て、その線の細さからとても切腹に至る前振りとは思えませんからね。それと発声がもう致命的。だからお相手の國村隼がですね、草彅剛のレベルに合わせて演技をチューニングしていると、見ていて如実にわかるのです。調和しているから、草彅剛も名演技をしているように「見える」。
吉原の大門に消えるお絹の背中をカメラが追うとき、ちょっとほかの映画では見たことのないようなアニメみたいな処理をするシーンがありますけど、お絹を見送る弥吉の心のうちのあからさまな説明になっていて、あれ、テロップで「弥吉、驚愕のあまり目が霞む」と出されるのとさほど変わらない演出でしょう。どうにもいただけません。人物の心理描写など極力排除して、客観描写に徹してこその時代劇ではないかと思いつつ、あの演出の延長線上に夕暮れの富士の書き割りがあるのでしょうし、あれはあれで面白かった。少なくとも、江戸の町やその賑わいのシーンの嘘臭さを、幾分か紛らわす効果はありました。
ところで斎藤工にあの狡い役柄は似合わないのじゃないか。顔も浮いていたように思います。殺陣に迫力を欠いたのは、これは斎藤工のせいというより、彼に挑み掛かる草彅剛の華奢な体躯のせいでしょう。体幹がなってない。
じゃあ、映画としてダメなのかといわれたら、そんなことはありません、十分楽しめます。時代劇のキョンキョンといえばあんみつ姫ですが、あのあんみつ姫もいまや遊郭の女将ですからね。岩下志麻ばりの啖呵が切れれば、この道も十分ありかと。顔の凄みは天性のものでしょうね。
最後まで見通せたのは、やはり國村隼のおかげ。声と役柄がピタッと一致していました。一芸を見るに値する俳優さんです。
しかしそれにしても、役者の顔ってのは、つくづく大事だと、時代劇を見るたびに思います。持ち上げておいてなんですが、國村隼クラスになると、何を演じても不穏さがつきまとう。善人を今は演じてるけど、きっと裏があるんだろう、と。あと、弥吉を演じた中川大志という役者さん。美形ですけど、鼻の下がやや長くて、モンキーパンチのルパン三世ふうなんですね。ちょっと間の抜けた顔をされてるので、これが万に一つも盗みを働いてないとは限らないと、見ていてどうにも不安なんですね。そう、何人かの役者が、観客をミスリードしているのではないか。とまれ、詰まるところ演出の問題に行き着くのでしょうけど。
その点、黒澤明の役者たちに裏表はまずないでしょう? 三船敏郎はどこまでも武骨な人情家だし、仲代達矢はどこまでも生真面目だし、加山雄三はどこまでも真っ直ぐだし、見ていて観客がブレることはまずありません。だからこそ、どんでん返しも可能になる。
時代劇に求められるのは、この安心感なのではないでしょうか。