前編(持続可能戦争)の方は完全なる映画・・・とまではいかないまでも、一本の長編としてほとんど違和感がなくなっていた編集の手腕に驚くほどだったけれど、2クール目は1話完結回が無いのと持続可能戦争みたいな露骨な前フリ用パートが無いので物語に最低限必要な情報量が多く、前編よりは「総集編」然としたヵ所がいくつかあって残念だった。しかも、いくつかカットを追加変更さえすればすんなり繋がりそうに見えたので、凄くもったいないと思った。
攻殻機動隊SACの恐らく実質上の完結編。2045をもってSAC初代の冒頭テキストにあった「~「孤人」が複合体(コンプレックス)としての「個」となるまでには情報化されていない時代。」からまさに「人間が「複合体としての個」にまで情報化された時代」へ追い付てしまった様子を描いたのだろうけど、それが原作や押井守版にあった素子と人形遣いとの融合を反転させたような、素子"以外の"人類とAIの融合によるドラスティックな一夜による変化だったのは、SFガジェットによって未来社会を構築してみせた攻殻機動隊シリーズにしては、早急に過ぎる描写にも思えて意外だった。
それも人類はAIによって二重思考を生きるようになる絶望的な未来。「ブラッドミュージック」や「ハーモニー」を挙げるまでもなく、人類が不可逆的で決定的な変化を遂げてしまう様子を描くことはSFにはしばしばあるけれど、二重思考の未来は、ポストトゥルースの現代状況とネットワークによる世界の拡張に希望を見出せなくなった現在の問題を、そのまま反映させたような「先のビジョンの無さ」があり、未来社会を夢想させてくれた攻殻機動隊にやられると「もうこの人類社会は袋小路だ」と言われたような後味の悪さがあった。
そもそも「攻殻2045」は人類とAIとの融合前から、すでに持続可能戦争と世界同時デフォルトによって国家社会が溶けかかっているような描写がしばしばあり、それは攻殻世界の2045年にしても「早すぎる」ように思えたのだけれど、草薙素子という、本気で社会を(世界を)変えられると信じていた女、究極の非社会的な人間がそもそも主人公の物語だったじゃないかという最後の答えは、なんだか煙に巻かれただけのような気がする。「攻殻機動隊SAC」の完結は本当にこの地点なのか、アオイやクゼが幻視した未来ってこんなことだったのか?、この終わりで良いのか。色んな意味でやっぱりショックだ。
あと「SAC 2045」、やっぱり「2ndGIC」はともかく「Solid State Society」からは到底、話が繋がってるように見えない。プロトって死んだの?アズマは?義体社会で課長がずっと杖は確かに逆にヘンだったけど、トグサはSSSから絶対ああはならなくないか?