こーひーシュガー

PERFECT DAYSのこーひーシュガーのネタバレレビュー・内容・結末

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

【不平等社会の中に見える近接性―――「PERFECT DAYS」】

※一度マークしたが、再編集して投稿

何か壮大で心躍ることが起きるわけでもない。
ただ1人の平凡な中年男の日常を坦々と映しているだけなのに、どうしてこんなにも観終わったあとの満足感が高いのだろう…

私が注目した本作品の一番のポイントは何回も映し出される東京スカイツリーだ。
かなり意図的な映し方をしていたため、監督は東京スカイツリーに何かしらの象徴性を託し、私たちに思考を委ねようとしているのではないかと考えた。
スカイツリーと同じ頻度で映し出されていたのが、緑豊かな自然である。
ここまでで勘のいい人なら察しがつくと思うが、この映画において東京スカイツリーは〈文明の産物〉であり、人々の高みを目指したいという〈憧れ〉として描かれていると感じた。
主人公である平山も車の中からスカイツリーを毎日見上げては穏やかながら、どこか圧倒されたような表情を見せていた。
人々の生活を上から見下ろし(「見守り」とも言えるだろうか)、文明という言葉を最もわかりやすく伝えられる要素の1つである"電波"を発信しているタワー。それと対を成すように緑、つまり自然を強調する演出が多かった。

少し汚い話になるが、トイレは人間が、排泄という、自然の本能で定められた行為をする場所である。
自然は美しくもあり、同時に汚くもあるのだ。
それはトイレ掃除中に見つけた迷子の男の子の母親が、男の子が平山と繋いでいたほうの手を嫌味ったらしく拭くシーンからもわかる。
おそらくこの家族は裕福なのだろう。
そして平山のような、いい歳してトイレ掃除を仕事にしている者の存在を見下しているのだろう。文明の発達は私たちの生活に利便性を与えてくれたが、同時に不平等さももたらしてしまった。文明社会とは不平等社会なのだ。

決して相容れることのないと思われている「文明」と「自然」。
では両者の決定的な違いはなんだろうと考えたとき真っ先に思いついたのが"近接性"だ。
平山は自分の部屋で植物を丁寧に育てていた。
それは平山の暮らしの一部であり、暮らしそのものである。
常に平山に寄り添い、孤独感を掻き消している。
一方、文明の象徴であるスカイツリーはどうだろうか。
作中では一度も平山はスカイツリーに登らなかった。それどころかほぼすべてのカットがそれを遠くから映していた。
自分の子供を保護してくれた平山にお礼の一つも言わず去っていった迷子の母親との間に見えない壁があったように、スカイツリーとの間にも壁があるのだ。
当然だが木々や草花は地面に接触している(というかそこから生えている)。
それは日々地面を踏みしめながら生きている私たちと共通している。
「人がゴミのようだ」
『天空の城ラピュタ』でのセリフ。
スカイツリーや高い建造物に登ったことのある人なら誰しも一度はこう思ったり、口に出したことがあるのではないだろうか。それは普段意識すらしない自分たちの小ささを目の当たりにして、皮肉っている。高みに立ったとき、私達が普段いかに現実的で、見下ろされるような場所で生活しているかがわかる(「見下ろす」と「見下す」は意味こそ異なるが似ている言葉なことにも注目したい)。
〈足元〉に生きる植物は、それに気を配らない人によって踏み潰されるかもしれない。
だが、踏み潰されることに対する恐怖心を持っている植物はおそらく存在しないだろう。
平山も同じだ。
どれだけ文明の波に飲み込まれようと、変わらないながらも、無駄のない、完璧な日々を過ごすのだ。
そう考えると「自然」を象徴しているのは木々や草花などではなく、平山自身だったのではないだろうか(実際、平山の下の名前は「正木」である)。
壁の向こう側に「文明」があり、私たちは「自然」と同じ側にいて、それは私たちのすぐ近くにあるという構図が示されているのではないかと感じた。
ここで注意しておきたいのはどちらが正しくてどちらが正しくないということではない。
「文明」も「自然」も各々が素晴らしい美点を有している。
しかし、我々の種の起源である猿人が生まれ、ホモ・サピエンスに至るまで、常に我々に寄り添い続けてきてくれたのはほかでもない「自然」なのだ。「自然」へのありがたみを我々は持ち続けるべきなのではないか。

近接性という観点で言うと、平山の住んでいるアパートの部屋には洗濯機や掃除機などの文明を感じさせるような物が少なかった。コインランドリーに行ったり(さすがに川で洗濯というわけにはいかなかったか笑)、ほうきと塵取りを代用するなど、最低限の必要な物を残して生活していた。

スカイツリーに象徴される〈文明の高み〉ではなく、自然、つまり〈足元〉を描くこと。
地位的、物理的に高いところへの憧れよりも、そのようなところと対を成す足元での生活に愛を感じ、周囲のヒトやモノ(高いところにいるヒトやモノも含む)に愛を分け与えながら生活することの貴重さ、ありがたさを感じられる、そんな映画だ。