Oto

PERFECT DAYSのOtoのレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.3
なんとも心地よくて愛おしい映画。
ここで描かれてるものを「丁寧な暮らし」ということで括りたくないし、むしろ「孤独」や「喪失感」が魅力になっている作品だと思うけど、生理的に心地いいと思える描写(脚本・芝居・撮影・編集…)が詰まっている傑作。

●誰にも見られない時間を描く
「職業に貴賎なし」(M-1でダブルヒガシが言ってた)とは言うものの、正直やっぱり自分もトイレ掃除をすすんでしたいとは思わないし、仕事としてはなかなか選びづらいものだけど、やっぱり映画のひとつの価値として「誰にも見られていない時間を切り取る」ことができるというのがあるので、今まであんまり考えてこなかった清掃員の暮らしへの解像度が上がるということだけをとってもすごく意味のある時間だった。雑にトイレを使う人物たちや無意識に偏見を持つ人への苛立ちを覚えるものの、ふだんの自分がああなってないか背筋が伸びた。

●「変わらないはずがない」
読後感を喩えるなら、『パターソン』と『ジャンヌ・ディエルマン』の中間のよう。平凡に感じられる日々の中にも変化や発見はあるし、一方でなんでもないようなことに事件性や悲哀が潜んでいる。個人的には何かが起こりそうな緊張感がずっとあるのがよかった。
「映画はドラマだ、アクシデントではない」と小津が言ったらしいけど、『首』と連続で見るとそれを実感した。大きな事件や出来事がたくさん起きるのが映画ではないんだなぁと(首はあんなに色々起こるのに眠たくなったし、今作はあの温度なのにずっと前のめりだった)。平山という名前も『東京物語』が由来とのこと。

それを象徴するモチーフが『木漏れ日』で、影踏みとか小説の内容ともリンクしているけど、「変わらないはずがない」という台詞があったように、繰り返しの日々だって認知次第ではドラマに富んでいて、同じ瞬間は2度とない。
「いろんな世界がある」という言葉もあったけど、もし人の数だけ世界があるのだとしたら、それだけ新しい世界に触れられる機会が潜んでいるということでもある。それだけでPerfect。

自分も仕事に忙殺されていると、日々が繰り返しのように感じられて自分が消えていく感覚があるけど、ショーペンハウアーが「本ではなく世界を読め」と言ったというように、出会う人とか日常の出来事とかを愛でて暮らしたいと強く感じた。
「Spotifyを知らない暮らし」や「風呂がなく銭湯に通う暮らし」に対していいなと思うのは、やっぱり生活からどんどんスローで手触りのあるものが奪われているんだろう。太陽が出ている時間に散歩するということすらしばらくできていないなぁとか思ったけど、一方で行きつけのお店があるという幸せも実感できるようになった。玄関前に持っていくものが並べられているのもいいなぁ。

●喪失感と家族
一方で変わっていくということは、何かが失われていくということでもあって、ママの「どうしてずっとこのままでいられないんだろうね」とか、おじいさんの「ここ何があったっけ?歳をとるとこれだから…」とか、平山さんの「今度は今度」にも現れているなぁと思う。

「寂しくないんですか?」と聞かれるシーンがあったけど、不在がずっと続いているのから寂しさに慣れてしまったというのが答えかなと思った。だから娘を妻が乗せていったシーンでは涙がこぼれるし、最後のドライブの涙もいろいろな解釈があると思うけど、沈む夕日も相まって喪失感に近いものは強く感じられた。

でもだからこそ、誰かと触れ合えたときの喜びが際立っているようにも感じられて、娘と暮らす日々は特に多幸感に溢れていていつまでも見ていたかった(特に公園でカメラを向けたりいちごオレを飲んだりのシーンが大好き)。
ほとんど言葉を交わすことはなくとも、ベンチにいる長井短、レコード屋の松居大悟、タクシーの芹澤興人、ホームレスの田中泯、耳を触りたい少年との間にもエモーションが生まれていて、宮部みゆき「人質カノン」のような趣を感じた。○×ゲームとかまさに、他者と関わる喜びの象徴みたいなものだなぁと思う。

笑って起きる日がたまにあったけど、それが休日だからなのか、それともアオイヤマダのキスのおかげなのかが気になる。彼女の「好きかも」のマインドは、日常の中に小さな喜びを見出していてすごく素敵に感じた。
睡眠中のモンタージュの考察もたくさん語れるけど、それにしても運転中のサウンドトラックが良すぎて、これはしばらく聴いてしまうな。。。

●「広告」としての映画
共同脚本&プロデュースの高崎さん、直接講義を受けたり会話をしたことがあるくらいの距離のすごく尊敬している方なので、ここまでの作品を作り上げたんだ…とリスペクトがさらに増した。

一方で気になったこともあって、BOSSがかなり序盤で出てくるのとかはどうしても広告色を感じてしまって、「このろくでもない、すばらしき世界。」と最後に出したらもはやコーヒーの広告としても成立してしまうな〜みたいな雑念が生まれてしまったりした。制作のために必要なことだとは理解しつつ。

ユニクロ発信の「THE TOKYO TOILET」の広告としてスタートしているということを考えると、あの質素な生活がどうしても作り物に感じられるという批判もあるらしいけど、
物語のパーツではなくコアだし、ザ公衆トイレではない前提で描き始めてるから、自分はそんなに気にならなかった。
「アートは貴族の特権なのか?」みたいな議論もあって、体制と物語のギャップにも課題がなくはないと思うけど、CMにしてたらここまでは深く刺さって残るものにならなかったと思う。

広告としても偉大な価値があることはすぐにわかるし、ユニクロやスポンサーの力がなければきっとここまでの広がりはなかった(逆のやり方だと長久さんのような自主的な作り方になるはず)ことをわかった上で、同じ業界にいるペーペーとしては、広告クリエイターがビジネスとしてアートやコンテンツを作ることの意味については考えさせられる。

平山の過去背景について注目しながらもう一度観たい。浅草やトイレへの強いこだわりの理由が掴みきれていない。

※追記
みてから批判をいくつか目にするようになった。

ひとつは、彼が生きる世界が意図的に外から断絶されているという指摘(映画というものを描かないことによる神格化をしているこというのは発見があった)。
https://note.com/ichikawatatsuki/n/ne3bd45967cc5

断絶性については同意だけど、自分はその異様で極端な孤独や寂しさがむしろ魅力だと思っている。

つまり自分のような人間は、他者と交わりたいと思いつつも、どこかで強く孤独を望んでしまっていて、閉鎖的な内側に閉じこもっている。そういうリアリティがこの作品にはあると思った。

もちろん上流の人間が下流の人間を閉じ込めて描いている危険性はあるものの、それはほとんどの映画について言えること。『パラサイト』のように明確に貧富や格差をテーマに描いた作品もあるけど、そこを描きたい作品ではなかったということではないのかな。

もうひとつは、偏った情報をかなり書いてたので引用しないけど、「ブランド志向のくせに清貧や薄給を美化している」という指摘。

これは妻や娘が裕福な暮らしをしているという描写から、出自には恵まれていたはずだろうという推測を自分も持った。平山の教養やセンスの良さもそこにあるとは思う。

深田監督が「映画監督になる第一条件は東京付近に男性として生まれること」という正直な話をしていたことがあって、感銘とショックを受けたことを思い出した。

ただそれって東京に男性として生まれて映画監督になった人を批判しろということではないよなと自分は思う。

他者からみて恵まれてる人にも、その人の悩みや孤独はあるし、ユニクロや電通が作ったから悪だ、という判断をする人にはなりたくないと思う。

この点で自分も平山の過去背景に注目してもう一度観たいと思っていた。ぼかされているということはあるものの、想定はあるはずで、少なくとも自分なりの答えに辿りついてから、賛否を示したいと思う。
Oto

Oto