Ryu

PERFECT DAYSのRyuのレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.0
今更観た。

公衆トイレの清掃員平山の生活をジャームッシュの『パターソン』にも通ずるような反復を用いた形式で描いていく。
表面的に起きている事象を観客目線で現実的に捉えていくと、平山の精神的充足のあり方に関しては正直やや違和感を覚えた。更に映画を追っていくと、アオイヤマダ演じる女性が頬にキスする流れを筆頭に不可解に見える場面が多い。ルーリードの音楽が流れて、銭湯に口まで浸かってニヤニヤしている件は野暮かもしれないが、おじさんの幻想のようにも見えてしまう。
しかし、そもそも平山を取り巻く人物の登場の仕方、彼の部屋それ自体が青緑に近い抽象的な照明に照らされ、常に光と影を行き来するような存在として描かれていること、そして何よりも最後までこの映画を追っていくとこれらの見え方はガラッと変わる。
光と影のメタファーを設定するということ自体、映画そのものを語ることになる訳だが、それらを行き交う具体的な表象として、チャップリンが繰り返し演じていた「浮浪者」という役を平山のリファレンスとして用いていたことを指摘できるのではないだろうか。
そして、この映画がチャップリン映画におけるファンタジー的な浮浪者の表象を脱構築することが一つの隠されたテーマになっていると言える。
4:3のフレーム内で、ちょび髭を整え、社会的に高い地位にいるとは言えないが、希望を持って日々を生きているその姿は、寡黙であることもサイレント映画的な表象を強調し、チャップリン映画の浮浪者の姿と重なる。頬をキスされる件や、背筋を伸ばして壁際を隠れる場面、足を奇妙に伸ばして屋外で座る姿、姪っ子と動きが不自然に重なる場面など挙げ出せばキリがない。
これらを踏まえて考えると、この映画の中で浮浪者という役柄が田中泯によって映画内で繰り返し再演されていることの必然性がより際立つ。実存的な浮浪者としての姿をスクリーン上に現しつつ、田中泯は幻想的に東京という街を彷徨うのだ。それは社会的ヒエラルキーの下層という意味で平山と重なりつつ、パラレルな主人公の姿であり、チャップリン映画の表象とは異なる表層としては極めて現実的な浮浪者の姿なのだ。二人は同様に影の世界を生き、ほとんど透明な存在として扱われている。
舞台設定も象徴的で公衆トイレのデザインが皮肉にもスタイリッシュで目立つデザインのものが選ばれている。そして何よりヴィム・ヴェンダースの見た東京は分裂した街として描かれている。平山が通い詰める居酒屋は昔ながらの様相を呈しているが、同じシークエンスの中でカメラが角度を変えて平山を映すと現代的な駅の構内が背景になっている。ヨーロッパとは異なる、新旧入り乱れた「繋がっているようで繋がっていない」都市の姿がそこには描かれている。
まるで黒子のような、陽の当たらない職業にそんな舞台の中で光を当てること。平山が現代的で整備されたトイレを清掃しているからこその眼差しの中で意味が重なるように、都市において無視され続けるホームレスの姿が彼の眼差しの中では生きているのかもしれない。

陽の光に照らされるラストシーンで泣き笑いの表情を浮かべる場面。同じくチャップリンを引用していた近年の『JOKER』も冒頭の場面で泣き笑いの表情が描かれていた。貧困というものが背景にありながら、ジョーカーというキャラクターを再解釈して、ジョーカーは『ダークナイト』で描かれるような悪のカリスマではなく、我々と地続きにある凡庸な悪意の延長の結果生まれたものでしかないことを描いた作品だった。
我々が観ていた平山の姿は「こんな風に生きれたら」というキャッチコピーのような理想的な姿のようにも、何かしら満たされないものを埋めるように失われつつある文化に囲まれながら時間を潰して生きているようにも見える。それはチャップリンの映画で起きていた劇的な出来事の連続に満ちた浮浪者の身に起きる御伽噺とは異なる、凡庸な人生の中で細やかな奇跡が少しずつ起きていくという形で脱構築される。そして泣き笑いという本当は誰の目にも映らなかった分裂した表情を、カメラを通して描き出すことで誰しもが抱える実存的な人生の悲哀に光を当てているのだ。
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