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エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のTacosのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

『洗礼を受けたから』
ただそれだけの理由で公然と誘拐が行われた。
モルターラ家にとって悲劇以外の何ものでもない。
 
我々日本人は今なお続く、宗教に基づく信念や行動指針に違和感や嫌悪感を覚える。と同時に、何があろうともその信念に従い生きていく様に、羨ましさも覚える。
 
さて、宗教には様々な種類があり、派閥がある。それぞれが持つ信念の衝突が起きれば、それは戦争に発展するような大きな問題に発展する。
 
エドガルド・モルターラはユダヤ教に生まれ、使用人によって「キリスト教」信者に変えられてしまった。洗礼を受けたことで教会は、彼はキリスト教徒であると信念に基づき判断したのである。両親や兄もユダヤ教の教えや教会の振る舞いは不当であると主張し、法的に、時には武力を行使し息子を取り戻さんと奔走する。
 
しかし、彼は10数年の時を経て立派な「キリスト教徒になっていた。彼はそれを自由意志であると疑わない。しかしこの言葉に私は異議を唱えたい。彼は本当に個人の自由意志によりキリスト教徒であることを選択したのだろうか。
 間違いなくそうではない。彼の自由意思と言う空間は、未熟なままに他人によって埋められてしまっていた。彼は、アイデンティティを失っていたのである。

 ここからは、飲茶著「正義の教室」の内容を引用してからの自由意志が
 正義には3種ある。そのうちの一つが自由主義だ。簡単に言えば、己が意思であれば何をしようと個人の自由である、という主義である。
至極真っ当な考えのように思うが、2つ注意点がある。
一つは、他人の自由を奪うことは許されない。当たり前だ。自己の自由を主張する者が、他人の自由を奪うパラドックスがあってはならない。
そして二つ目が、未成熟者には適さないということである。どういうことか。
例えば、20歳を超えた人間が高層ビルの手すりの縁に登るのと、6歳児が登るのとでは何が違うだろうか。それは、これから起こるであろう結末を認識できているかという点である。
その高さから飛び降りることで〈死ぬ〉と認識できているかどうかで、その選択が自由の名の下にもたらされたものであると言えるかが決まるのである。

 以上が、彼の言う「自由意思」が違っていると思う理由である。
 「数奇な運命」と銘打ったこの作品は、そんなドラマチックな者ではなく、ただ己が宗教観可愛さに1人の人生をぶち壊した、胸糞エピソードである。
 その全てが母親の死の間際の彼の行動に詰まっていると感じた。

PS.ミニシアターの客層が悪すぎて気が散ってしまい、最初の方覚えてない。

 
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