そーた

アッシャー家の末裔のそーたのレビュー・感想・評価

アッシャー家の末裔(1928年製作の映画)
4.3
沈黙は二重だった。

去年だったか、
損保ジャパン美術館で「最後の印象派展」ってのに行ってきて、
初めてアンリ・ル・シダネルの絵を見ることができた。

印象派と言われればそうかもしれないんだけれど、
象徴主義の匂いをもプンプンとさせているその絵は、
「最後の~」と銘打たれた展覧会に相応しいと感じた。

絵画の歴史のなかで、
表現のスタイルが移り変わっていったように、
映画史においても大きなパラダイムシフトがある。

その変革をリアルタイムで経験したのであろう作品が、
このアッシャー家での怪異を描いた異色の短編なんだと思う。

映画黎明期以前に主流だった写真の文法を余すことなく駆使し、あたかも映画の行く末を予言するかのような見事な視覚表現を、
その当時に出来る限りの技法で昇華させた無声映画の傑作。

胸騒ぎするような映像体験を、
1928年当時の人々がどう受け止めたのかどうかは知るよしもないが、
サイレント映画からトーキー映画に移り変わる過渡期に、
製作陣営がどのような信念を持って今作を撮ったのかと思うと興趣が尽きない。

沈黙は二重だった。

この劇中の言葉を、
20世紀初頭のクリエーター達はサイレント映画の優れた特性と理解していたんじゃないか。

そう仮定してみれば、
風になびくカーテンや、崩れる本の山に、べとりと滴る蝋燭などの無声描写が、
有声映画に増して雄弁だった事に合点がいく。

その立ち位置の土台には、
無声映画が後に辿る音の獲得や色への目覚めを予見するかのような先見性があるように思え、
だからこそ無声に秘められたエッセンスを最大限に抽出せしめたんだろうなと勘ぐってみれば、
シダネルの絵画が象徴性を携えたように、
このアッシャー家の末裔にも、
次代へと映画の命脈を伝達しようという意思を感じてしまう。

まぁ、当事者の真意のほどは分からないけれど、
こう都合よく曲解できるのは、
未来に生きる僕ら現代人の特権なんだろう。

そんな、色眼鏡をかけて過去を振り返ってみる。
するとことのほかうまい酒が飲める。

幸運にも、
今夜は奥さんが2本目のビールを赦してくれた。
そーた

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