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落下の解剖学のEditingTellUsのレビュー・感想・評価

落下の解剖学(2023年製作の映画)
4.1
裁判の始まりは、
落下したサミュエルの解剖から死因を限定する
残された血痕から科学的に落下した経緯を分析する
サミュエルの自殺かサンドラの他殺か

執筆の才能に悩む、元教師サミュエル
執筆の才能はあるが、不倫を犯してしまったサンドラ
事故で失明寸前まで視力を失ったダニエル

裁判の終盤には
サンドラとサミュエルとダニエルの家族の過去を追及し家族の解剖へ
過去の口論、サミュエルが過去書いた本の引用から陪審員へ心理的な訴え
人間として悪いのは、サミュエルか、サンドラか

この裁判の流れは、映画を見ていると痛々しく、とても不自然でドラマタイズされているなと感じる。
しかし、そのフィクションは惨くも極めて自然な流れだということに気付かされる。日常にある小さな口論から、政治家同士、メディア同士での論争まで、色々なところで見かける光景である。
最初は建設的に話を進めるつもりが、最終的に話は俺はいいやつ、お前はわるいやつ。

なぜそうなるのか。この映画では、自分と他人の圧倒的な距離感で突きつけてくる。
結局情報というのは、自分が見たこと以外は想像の範疇を出ず、事実だけで物事を判断することは不可能だと。
劇中でダニエルの印象的な証言も直接、最後は色々な伝聞から想像することしかできないと言っている。
わかることは自分の周りの半径何メートルかのことだけ。ダニエルはまさにそれの象徴だし、サンドラが夜、家から出て夜道を車で走るときも、見えるのはヘッドライトが照らす数メートル先まで。それ以外はぼやけているか、闇か。
メディアで見た情報は、まるで真実のようだが、誰かの想像を文字や映像で表現しただけで、事実とは程遠い。

人間が社会を構築する生き物なだけに、自己と他者の規模の大きさに自己を見失うことは少なくない。社会が正義とされる世の中で、個人が埋没し動物的な部分が野蛮で醜悪だとされる矛盾した流れは避けられず、SNSを主流としたあまりにもコンパクトな世界ではそれがより浮き彫りになっている。

そんな社会が生み出した矛盾を、社会が生み出した揺るぎない制度で語っていく。民主主義が司法に正義のバランスを作り上げた、陪審制度。逆説的に集団と平均化の危うさを提示する。

個人が埋没し、想像と事実が混在する情報は時に、ノンフィクションがフィクションを模倣するといった逆転構造が生まれる。他人の想像が作り上げた世界に自己を投影することを現実だと認識してしまう感覚は、コンパクトな世界では如実に現れる。
この映画でも、陪審員の心理上では、何が主観で何が客観なのか、何が想像で何が事実なのかはごちゃごちゃになってるに違いない。私は大丈夫と思っている視聴者もまんまと同じ立場に立たされる。

それを実現したのが、この映画の編集。裁判のワンシーンで、事件前日の夫婦の口論の録音音声が流される印象的なシーンがある。
いつの間にか映像はその口論のシーンへ。
二人はダイニングキッチンで口論をしている。サミュエルはキッチンに立ち、サンドラはダイニングに座っている。白ワインを飲み、タバコを吸っって口論している。
この映像はまるで事実のように映し出されるが、誰目線の映像なのかははっきりとしない。あくまでも裁判で流れているのは音声だけで、この映像の審議はいまや、サンドラしかわからない。しかし明らかにサンドラの目線ではないことがわかる。だとすると、これは誰かの想像でしかない。それを事実だとして見てしまっている視聴者は少なくはないだろう。
この構図はフィクションの中のフィクション。メタフィクションの構図を持っており、ノンフィクションとフィクションの境界線が曖昧になっていることから生まれた概念であることも裏付けている。

ここまでくると、この映画はミステリーではないことはわかるだろう。最後、これが自殺なのか他殺なのかの決着は着くが、判決ではなく、事実を知るのはサンドラだけ。視聴者が実際のところを知ろうとするなんて、そもそもありえない話。

おもろ。
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