デッカード

落下の解剖学のデッカードのネタバレレビュー・内容・結末

落下の解剖学(2023年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

2024年3月12日さらに追記しました。

※かなり長くなりました。
※あくまで個人の感想です。解釈を間違っているかもしれませんが、私の解釈・感想として書いてみました。
「違うだろ」と思われた方、お許しください。
※もし解釈が当たっていたとしたら、完全なネタバレです。鑑賞前の方は読まないことをおすすめします。






フランスの雪山、人里離れた山荘で暮らす家族・父サミュエル、小説家の母サンドラ、視覚に障害のある息子ダニエル、そして犬のスヌープ。
ある日起こった父サミュエルの落下死。
事故か?自殺か?殺人か?
事件は世間の注目を集めながら法廷で審理されることになる。

この作品は結末から逆算するかたちで映画全体が設計されていて、ラストに向かう上でのミスリードとヒントのばら撒きが行われているので、ラストの自分の解釈から書かないわけにはいかない。

殺人の疑いをかけられた母サンドラは息子ダニエルの証言で無罪を勝ち取り、ホッとして山荘に帰ってくる。
ダニエルの付き添いの女性を帰らせ、ソファで寝落ちしていたダニエルを抱き抱えてベッドへと運ぶサンドラ。
ベッドで目を覚ますダニエルが、サンドラの髪の毛を撫でる。
それは明らかに"男"が愛する"女"にする仕草だった…
ダニエルの部屋を出て疲れて横になるサンドラ。
その横に犬のスヌープが寄り添う。
邪魔者がいなくなった"群れ"の一員を守るかのように…


「母親と幼い息子の近親相姦」


はっきりとした描写はない。
なので確実にこれが真相なのかに異論もあると思う。
しかし恐ろしく背徳的な真相を匂わせるだけのラストたった5分程度の描写をそうとらえると、それまで語られてきた静かで退屈にさえ思えた映画全編の描写のすべてがつながり、曖昧なまま終わった事件の真相も克明に見えてくる。
そして、この映画が結末を予定しながらヒントとミスリードを同時に描くという緻密な計算による描写の積み重ねであったことも明らかになる。
エンドクレジットまで続くスヌープが"群れ"の一員であるサンドラの匂いを嗅ぎ取り守るようにいつまでも寄り添う姿は、そんな背徳的真実を確信に導いていく。

ここからは、細かい描写について書いていこうと思う。

真相がわかってみると、ヒントをギリギリのところで曖昧にし観る人を混乱させ、いろいろな方向へとミスリードしているのがうまい。
法廷論争でサンドラの素顔が次々に暴露されていくのだが、その描写での一つひとつの事実がヒントになりかつ観客をミスリードする構造になっていて無駄がない。
法廷場面で傍聴席にいるダニエルを時折見つめるサンドラの視線はどんなだったか、記憶にないのはラストを全く予想していなかったからなのだが、そこはまた意識して観たいところ。

検察側は落下した状況の不自然さを検証したり、サミュエルが通っていた心療内科の担当医に証言させたり、サンドラとサミュエルの夫婦間に諍いがあったことなどを証拠として出し次々とサンドラの殺意とサミュエルに自殺願望がなかった事実を明らかにしていくのだが、物的証拠はなく全て状況証拠に留まる。

検察官がサンドラの過去の小説を引用してサンドラの殺意を証明しようとするのはあまりにも無茶。
殺人を創作上考えたことがある小説家の殺意を認定しようとする推論はさすがにめちゃくちゃで、だったら世界中冤罪だらけになってしまう。
しかしこれもサンドラの内面を探っていくための重要なヒントの一つなのだが、ここでも見事に"創作者の内面"という全く違う方向へとミスリードする。

小説家としてある程度成功している妻サンドラに対して、同じ小説家を目指しながら全く小説が書けない夫サミュエル。
サミュエルの小説のネタをサンドラが盗用したというくだりでは、サミュエルの自分のオリジナルなアイディアに対するこだわりと執着が描かれていて、そのいいとこ取りをした人間に不信感を持ったことは理解できる。
しかし職業作家は1作書いて終わりではないので、一つの小説のアイディアにいつまでも執着し次の作品が全く書けないサミュエルは、やはり小説家としての才能がなかったとしか言いようがない。
そしてそれをサンドラが職業作家として傲慢かもしれないが、どこか蔑んだ目で見ていることが夫婦不仲の原因の一つになっているのだが、それもある意味仕方がない。
さらに経済的理由や生活の役割分担の行き違いも加わり、サンドラの殺人動機は十分に思えてくる。
しかしここで隠された真実として、サミュエルが山荘の"群れ"における厄介者でしかないことも明らかになっている。

また、サンドラが性衝動に貪欲で女子大生にもアプローチしそうな雰囲気も醸し出すシーンもあり、LGBTQの性についての側面に観る人の視線をうまく逸らしているが、サンドラがバイセクシャルであるという設定が伏線としてちゃんと説明されているのでラストに違和感はない。

サンドラとの関係を疑わせる胡散臭い弁護士のヴィンセントの存在などは思わせぶりだが完全なミスリード。

結末を知ってしまうと、熱く展開する法廷劇にはそんなヒント・伏線とミスリードが同じ出来事に混在していたことがわかり、描写は精密で見事。

しかし考えてみれば事件の起こった背景は実にシンプルで、冒頭の設定からすでに明らかになっていることに気付く。
ロンドンという大都市からの不本意な移住。
しかも、そこは人里離れた山荘で住むのはわずか3人。
2人の"男"と1人の"女"しかいない。
その時点で特定の"男"と"女"が結びつき、邪魔者を排除しようとする構造はすでに出来上がっている。

サンドラの無罪を決定付けたダニエルの証言だが、これもどこまでが真実だったのかはわからない。
付き添いの女性を証人にして、犬のスヌープにアスピリンを大量に飲ませサミュエルの自殺願望をほのめかしたのも、観終わってみると作為的だったとしか思えない。

最後のダニエルの正体に私は驚いてしまったのだが、この解釈が間違ってなければなのだが、この映画の作り手が実は世の中の"当たり前"に対して強烈な反論をぶち込んだと見ることもできるのではないか?とも思った。
「障害のある少年」は「善人」で「無垢」だという無意識のうちの先入観は、逆に言えばその人たちに「そうあれ」という押し付けにもなっているかもしれない。
「障害のある人」が善人でなければいけないということはないし、「子ども」が精通ギリギリの11歳で全くその性衝動に対して正直になってはいけないというのも先入観が前提となった押し付けのように思えた。

この映画は結末でそんな観る人の持つ押し付けの"当たり前"をひっくり返して驚かせるのだが、世の中の人々が無意識のレベルで人間を何かしらのカテゴリーで区分けし、本来の個性や多様性を無視して型にはめて見ていることがこの映画のミステリーとしての肝になっているし、作り手がそんな社会の「常識」に一石を投じたと思うのは考えすぎだろうか?

傲慢だったり身勝手な素顔がだんだんと明らかになるサンドラ役ザンドラ・ヒュラーの激情や迷いに翻弄される人間臭さにあふれた熱演が目を引く。

この映画で、おそらくもっとも大きな意味を持つ役どころ犬のスヌープ役のメッシくんがパルムドッグ賞(そんな賞があることは知らなかったが)を受賞しているらしいのだが、大役を好演していて印象深い。

この解釈が正しいのか?間違っているのか?
正直曖昧で微妙な描写だけで終わるラストなので断言はできないが、私はこの解釈で鑑賞しました。
間違っていたらすいません。
ただ、自分としてはこの解釈をした上で思い返すと、本作は今年ベスト級の映画として評価できると思いました。



追記(これだけで長いです)

私は、犬のスヌープがこの映画でもっとも重要な役どころであると思っています。
いや、実際はこの映画の真相に肉薄するために配置されたわかりやすい"ヒント"と言ったほうがいいかもしれません。

3人の家族は人間として感情に流されたり、隠し事をしたり、ウソもつきます。
しかし犬のスヌープの行動だけにはウソや隠し事はありません。

犬は、大型犬も小型犬も"群れ"の中で序列を付けます。
そして上位のものに対しては絶対の服従をします。犬という生き物は本当に健気なんです。
そう考えて映画を観ると、スヌープは全編常にダニエルを守るように付き従っています。
これはスヌープがダニエルを飼い主として上位で認めていることを示唆しています。
スヌープがダニエルを"群れ"の上位者と認識し、ダニエルを守り、かつ言いつけは守るということが何気ない描写ですが重要なヒントになっています。
つまりスヌープの行動には必ずダニエルの意思に連動するものがある、という無言の示唆です。
そのスヌープが最後にサンドラに寄り添い守るようにする姿で映画は終わる…
スヌープがサンドラに絡むシーンはこのワンカットだけですが、それはスヌープがサンドラをダニエルと同様の"群れ"の上位者としてかねてから認めていたことを示しているように思います。

残念ながら、サミュエルに対するスヌープの行動が描かれていないので、スヌープにとってダニエルとサンドラだけが近い関係だったのか?サミュエルを"群れ"の邪魔者と認識していたのか?を断言はできませんが、あえてサミュエルとスヌープが接する描写がなかったことを考えるとサミュエルはスヌープをかわいがってはいなかった、スヌープにとってもサミュエルは"群れ"の一員ではなかった、と考えるのが自然だと思えてきます。

犬は鋭い嗅覚で人を判別します。
サンドラに対して何の違和感もなく寄り添えたスヌープの行動が描写されるラストには、ダニエルの匂いを嗅ぎ取った、あるいはサンドラの匂いもダニエルと同じくらい嗅いで暮らしてきているというわかりやすい真実が描写されていると思います。
なお、ダニエルがスヌープにアスピリンを大量に飲ませてスヌープが死にかけるシーンも、完全に観客を犬がドラマ展開における"小道具でしかない"という方向へのミスリードだと思います。
このシークエンスがダニエルがサミュエルの自殺願望を証明する要素にもなるという二重構造になっているので、劇中重要なシーンであることは間違いありません。
犬は飼い主に忠実なので、ダニエルにあんなひどいことをされてもスヌープは決して裏切りません。
それが犬が、健気でウソや隠し事はしない、正直な存在であると言える所以なのですが。

スヌープの存在意義は間違いなくラストの長回しだと思います。
途中でばら撒かれたスヌープの行動を考えると、この映画のモヤモヤ感が薄れすべてのことが腑に落ちる、と言えるのではないか?と思います。

そもそもダニエルとサンドラ、あえて私はダニエル主犯説ですが、二人はサミュエルの死が事故として処理される想定があったのでは?と思っています。
それが嫌疑をかけられ法廷の審理にまで持ち込まれサンドラの正体が次々に明らかにされていき、サンドラが精神的に追い詰められていくことは想定外だったのではないでしょうか?
これではサンドラが有罪になってしまう、ということでダニエルが起死回生で打った手がスヌープにアスピリンを飲ませて証明し証言したサミュエルの自殺願望だったと思います。
法廷での偽証罪を避けるため、ダニエルが実際サミュエルが言った言葉を引用し、それをサミュエルの自殺願望につなげる裏付けとしてスヌープにアスピリンを摂取させるというひどい行為はダニエルにとっても考え抜いた上での賭けだったかもしれません。

カンヌパルムドール受賞、アカデミー脚本賞を受賞したこの映画の脚本が緻密に練られたものでことは先に書きましたが、法廷劇での人間描写のみに目を奪われ、なぜ"犬"が登場しているのか?というヒントに気づかなければ映画そのものがいつまでも曖昧な、わかりにくいだけの作品になってしまうと思います。
スヌープを「飼い主に殺されかけたかわいそうな犬」という単純なミスリードに引っかからず、ラストシーンで真実を匂わせる非常に重要な存在として認識すれば、映画の脚本が観客を惑わしモヤモヤさせるだけのものではなく、ちゃんと具体的なヒントも描写している空白がないものであることに気付くことができるように思います。
ただこのヒントには、犬を飼ったことのない人はなかなか理解できないというむずかしさがあることは事実です。
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