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関心領域のappleraichのレビュー・感想・評価

関心領域(2023年製作の映画)
3.5
これは自らの関心領域が問われる作品。「関心領域(英題The Zone of Interest)」とはナチスがアウシュヴィッツを呼ぶときに使う婉曲的な表現。それはまるで日本の「特攻」や「玉砕」のようにその言葉の裏にある肉体的な醜怪さや罪意識を少しも想像させない言葉の使い回しである。(この映画には出てこないがその他にも「抹殺」や「絶滅」を「最終的解決」という言葉を使っていたドイツの歴史がある。)それをタイトルとして使い、おそらくダブルミーニングを狙ったであろう時点でこの映画の価値は保証される。僕は昨夜に名作『ソフィーの選択』を観たせいもあり、連夜にわたってアウシュヴィッツものを観ることにしたけどこの映画の前情報は全く仕入れてなかったのでポップコーン片手に観た。実は最近仕事が激務過ぎてエンターテイメントに飢えていたからでもあるんだけどアウシュヴィッツを肴にして飲食を楽しむなんてどうかしてる。でもその態度はほぼ正解であったと途中から思うようになった。A24の企みが透けて見えたからだ。
この映画において大きな時代のイベントは結局何も起こらない。いや、表面的には何も起こらないように見せるがその裏で人類史上未曾有の大虐殺の決定が行われ、いかに効率的に「荷を焼却」するかが関心の的であったことを我々は歴史で知っている。だのに、それを見事に実感させない敢えて退屈な映像を流し続ける企みとなっているのだ。端々の家族の会話や行動で、ヒトラーによって作られた当時の倫理観の異常性は分かる仕組みにもなっていて、この知的なA24の挑戦状を受けてやろうと僕はポップコーンを食べ続けコーラを飲み干した。何か起きたらスゴスゴと引き下がろうとしたけど結局何も起こらなかった。図らずしも劇中のドイツ人を追体験した形となったわけだ。
僕はこの映画で重要な点は2つあるように感じる。
一つ目は、映画館で寝てしまうおっさんは悪くないということ。それはおっさんの認知の限界が来たことを示していて、それほど日本には平和が満ち溢れていることも分かるしアンテナ高の限界は社会の特性であれ、おっさんの罪ではない。ある種、認知領域の絶対座標をこの映画は世界に示したことになる。
二つ目は、意図的に肩透かしを食らわされること。ナチスによる凶悪さを感じさせる衝撃映像を期待したのは、実はほとんどの「関心領域」はそこだという点。所詮、何だかんだアウシュヴィッツもエンターテイメントとして消費されてる事実があり、この作品の点数が下がるのもそれが故である。

さすがにA24作品と思わせるのは、冒頭の黒い映像の出だしからこれは音で魅せる(或いは嫌悪させる)映画だと予感させていたところ。
僅かながら聞こえる銃声と叫び声。それでも退屈なホームドラマは続く。もしかして中の行いを妻は知らないのか?ところがどっこい妻でさえもアウシュヴィッツの国家的役割を十分認識していてアドバイスまで行っていた。
つまり夫婦にとって「彼ら」は「ゴキブリ」か「ネズミ」なのである。そのように社会が「彼ら」を種として分類しているのだからその駆除は正当行為でしかない。ならばできるだけ効率化するのが主役たるドイツ人夫婦の仕事であり使命なのだ。真面目で実直な典型的ドイツ人なのに、集団ヒステリー下においては人を人とも思わない恐ろしいことができてしまうのは戦争加害者としての日本人も身につまされる話ではある。
時折挟み込まれる暗視カメラ映像と低音のSEの駆使はホラー映画並みに怖いが、かの時代の常識からするとリンゴを与える人道的な少女がまるで醜怪な存在でしかないことを表すかのように暗い。
つまり、この映画はできるだけ当時の思想を擬似体験させる啓蒙的映画なのだろう。この意義が一番恐ろしいのは当時の模範的ドイツ人が陥った異常な状況は今の我々にそっくり当てはめることができる事を気付かせるところだ。映画には色んな技法があるけど、こうにもメタ的に際立った実験的手法はこれまで知る限り見たことはない。
我々は知識はあっても果たして関心はあるのか。かつて駆除対象となったユダヤ人が作った国家イスラエルがパレスチナで行っていることはかつて民族が被った「駆除」ではないのか、という空前絶後の矛盾がニュースから流される現実を前にし、平穏な生活だけが全てと言わんばかりに何も抗議の声を挙げない我々は、人道や人権について本当の意味で関心があるのだろうか?というところまで問われかねない。この映画は退屈であるのにも関わらず、一部の人に決定的にクサビを打ち込む役割を果たしたのだと思う。
昔はメディアが発達しておらず見えないから無関心というのはまだ許される。現代は恐ろしい事実が見えているのに無関心なのだから命の価値は今の方が相対的に低い。
例えば、何気なく大谷選手の12億円の豪邸が話題になっているが、あれこそパレスチナやアメリカの経済格差の底辺や差別の現実の壁の向こう側のお話しということに気付かせられるか無視するかは自分次第。別に大谷選手は悪くない。ゾーニングで安全安心を買う富裕層の逆ゲットー化現象とゲットーの中で無差別爆撃を受ける庶民という同時代で起きてる壮大な矛盾を壁の向こうの事として見えないふりをしてないか。

「我々は子供の教育に最適な環境を整えてきました」や「アウシュヴィッツの女王」のくだりには、さすがにポップコーン片手に戦慄した(脚本家又は原作者が一番言わせたかったのはこの台詞だろうなーと想像)。
時代が作る空気を後付けで評価するのはズルいものの、「アウシュヴィッツに残りたい」と普通の妻が思ってしまう世の中にしてはならないという教訓の意味でも意義のある映画だと感じるところ。

閑話休題

偶然だが昨日レビューした『ソフィーの選択』と妙に符合するこの映画。なんとソフィーが秘書として仕えたのはアウシュヴィッツ所長のルドルフ・ヘス。つまり『関心領域』のこの主人公の夫なのだ。

後から考えれば靴を脱ぎ身を預けた女性はソフィーなのだろうか?さすがにソフィーはフィクションかもしれないけど『ソフィーの選択』では彼女は貞節を守れたことになっていた。

『ソフィーの選択』主人公スティンゴは原作小説の中で次のとおり述べている。

「メーリングとラングナーが死に追いやられていたその同じ時間に、そこから二マイル離れたポーランドの農場でも、五千マイル離れたニューヨークでも、人類の圧倒的多数は眠ったり食べたり映画に行ったり恋をしたり歯医者の心配をしたりしていた。これがわたしには想像を絶するところだ。この同時体験の二つの秩序はまったく別々で、人間的価値の通常の基準にあてはまらない。その同時存在は実に恐ろしい矛盾だ。」

ついでに言うならば『シンドラーのリスト』で有名になったアーモン・ゲート所長はこのルドルフ・ヘス所長とともに裁判を受け有罪になっている。シンドラーは絶対的無関心の状態からアーモン・ゲートによって関心領域にまで引っ張りあげさせられた稀有な人物だったことに、ついつい思い至ってしまう。

この3本の映画は図らずしも所長のルドルフ・ヘスを通じてある一つのテーマで絶望的に繋がっていた。あなたの平穏な生活は壮絶な地獄と壁一枚の隣り合わせだという事実。映画の力を感じさせるこの3本をぜひ併せて観て欲しい。
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