snoozerの最終号(たしかくるりが表紙)に載っていたJAMES BLAKEのインタビューだったか
編集後記だったか忘れたけど
タナソーが
「半径数メートル(普段の生活圏内)の外側の、ニュースで見るような事件や、海の向こう側で起こっている惨状について思いを馳せるということは、人間、とりわけ表現者には肝要な想像力であって、その想像力の欠如が大問題」
といった趣旨のことを書いていて、その通りだなと強く感じ、それが記憶に残り続けていた
そこでまさに「関心領域」である
私自身
日々の、自分と家族の生活を立てるのに必死で、忙しさにかまけて政府の蛮行や海外の虐殺報道に、知った気でいて、より詳細な情報収集やファクトチェック、署名やデモ参加、募金などの具体的なアクションが出来ないでいる
そんな自分自身にも苛立つし、
「自分と身内の人間が穏やかに暮らせればいい。悲しいニュースは聞きたくない」
という考え方の
政府にとって善良な市民、所謂「sheeple」への無力感
世の中の状態は加速度的に悪化している一方で、
どうしていいかわからない、具体的な方法も見いだせない、閉塞感
そういった感情が日々堆積され、ときに忘却され、を繰り返している
この映画を劇場で観ることを選択している時点で、少なからず「意識的」ではあるのだろうけど、この映画に突き付けられた事、それをどう受け取りどう行動するか、、、
映画そのものについては、
「やっぱり人間だから限界があるよな、完全な鬼畜にはなれないよな」
と感じた。
ラストのルドルフの嘔吐
これはサルトルの「嘔吐」であり
社会状況や自分の仕事、立場、善悪の判断といった関係幻想がそぎ落とされ
「人を殺している」
という禍々しい事実が「実存」として迫ってきたことへの生理反応と解釈した
これは「アクト・オブ・キリング」とまったく同じ結末
1943年でこの状況なので、2024年の現在を考えると、非人道的な行為やそれへの加担は、やり口がより間接的かつ巧妙化していて、人々の無関心、無思考、同調圧力を助長している
その結果「sheeple」的なる人々が無意識的に悪事に加担しかねない状況
この映画を観て考え、他者と意見交換すること、
ハンナ・アーレントの云う「凡庸な悪」について再考することは、閉塞した現在の社会生活において、過去の過ちを繰り返しかねない現況において、ささやかながら有効な処方箋となるかもしれないし、それを期待したいのでリンクを貼っておきます
https://m.youtube.com/watch?v=L7m1r-zScBo
<追記>
BLACKHOLEの配信を見て、私自身も紋切り型の物言いに陥っているような気もした
映画がきっかけで「凡庸な悪」の危険性を再認識できたことが個人的収穫だったのは間違いないんだけど
ヘス夫妻が、気づいたら悪事に加担していた凡庸な悪人だとは思わなくて
略奪、虐待、殺人行為には自覚的だったが、それを政治や法律の後ろ盾で正当化していたというタイプだとは思うのだが
ヘス夫妻がどれだけ邪悪だったのかがわからなくなってきた、正直