多次元世界の住人

関心領域の多次元世界の住人のネタバレレビュー・内容・結末

関心領域(2023年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

期待通りのA24作品って感じだった。よはその不気味でありのままの日常をいかにして描写するかという点なんだと思う。
だから日常すぎて退屈に思えるんだけど、でもその後ろで聞こえる叫び声や銃声はそれらを日常に埋没させてしまう恐怖が潜んでいると思う。そしてただこれで終わらないのがA24なんだろうなと。
突然の暗転やネガ、赤い画面、そして奇妙でドキドキする音楽は日常に目を背けていたものがいきなり目の前の「関心事」になる感覚がうまく表されているように思う。それにしてもネガの表現は斬新だ。(しかしあの女の子の行動をまだ理解できていない、ユダヤ人?)
あと最後の現代のアウシュビッツがいきなりクロスしてくるシーンは非常に興味深かった。あの示唆の仕方は彼はわかっていたと見て良いのだろうか。
全体として慣れる人々と関心を向けつつも背けようとする人々があまりにも自然に表現されていた。だから後半の焼却の部分で窓を除いた人や帰ってしまったおばあちゃん、2度とやるなといった少年。川の場面もそうだが、知っているのだけど知らないふりをして日常を送る恐ろしさを自然に表現した作品だと思った。
しばらく寝かして考えてみたい。

PS
振り返ってみればこの映画はあまりに退屈だった。ゆえに恐いのだ。それは幸せの日常描写があまりに淡々としていて、その後ろにあるものに関心がいかない。観客がそれを退屈だと思うことこそ自体が大変恐ろしいことなんだ。同時にそれは世の中の問題があまりにも<目を背けられている>ことを暗示しているかのようである。我々は現にそこに起きていることから目を背けて退屈な日常に入り込んでいるんだと気付かされる。退屈ゆえに恐ろしい。なんてすごい映画だろうか。

また構図があくまで主人公視点だったのは非常に良かった。つまりアウシュビッツの暴力的なシーンは描かれない、音響だけ。それがむしろリアリティを創り出していた。ちょうどノーランのオッペンハイマーのように。
それにしても映画だからこそ、音や背景によってその存在が仄めかすことができるってものだが、原作が小説なのだから驚くばかりである。一体どのように表現されているのだろうと気になった。

ナチスから悪を読み取った哲学者のアーレントが<凡庸な悪>と呼んでいたものが実感として伝わる感覚があった。悪というのが何か恣意的に行われるのではなく、日常の中の無思考・盲目性、ここで言えば<目を背ける>ことで生まれるその現場に立ち会う感覚である。

3.8→3.9