みどりです

乱れるのみどりですのネタバレレビュー・内容・結末

乱れる(1964年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

本当にサザエさんヘアーってあったんだ。
母と娘たちが話し合うシーン、ウチの母方の親戚の会話と似てて不思議だった。この時代からかなり時間が経っているのに。姑、小姑と嫁の関係は男には分からないものがあるのかな。ちなみに俺も全く状況は違うけど義姉を何かにつけて擁護していた。憧れやすい関係なんだなー。当時の男尊社会についてより、その中で女性がどう描かれているかを考える方が面白い。当時だからこそ男性、成瀬巳喜男が描いた女性像には真実味が宿っていると思った。現代では当然批判が加えられるんだろうけど。
ラストに向けてカメラが抑えられた映画を初めて見た。成瀬や小津の視点をもっと勉強したい。

以下24フレームの映画学からのメモ

2章 成瀬巳喜男 乱れるのダイナミズム

「追うもの/追われるもの」
二人の視覚的な距離感の操作
禁断の恋物語ーその境界を巡る

警察から帰る斜めに歩く二人を移動撮影で捉えるショット。歩き去る高峰秀子の背中を捕らえるショットは「追うもの」の視線。

「目線送り」
アクションする人物の動きを、それを見る人物の視線を媒介に、あえてフレーム外で想像させる演出。
この技法の効果の意味とは。

繰り返される高嶺の「襖を閉める」アクションは、悲劇で固く閉ざされた人生の代弁、現在の状況の「生」の閉塞的状況、「追うもの」を頑なに拒み続ける凍てついた心の示唆

湯気ーー義弟に向けられた今にも噴出しそうな女のエネルギーを代理

温泉街の3階から見下ろすーー上から下への視点ショットが突然作り出してしまう映画空間の拡張が見ているものの真理に不気味さをもたらす。この俯瞰ショットの危うさは、それまで温存されていたらからこそ効果を発揮する。

運動の相としてフィルムに現前していた高嶺は、運動をうばわれて一方的に視線を送る存在になる。加山雄三は見送る側→見送られる側に。

遺体を媒介にしたロングショットからクローズアップの異なる構図を使った巧みな編集は、かき乱された女性の心象を体現するダイナミズムを生み出すことに成功している。

成瀬映画はほとんどミディアム・ショットで、寄ってもミディアム・クローズアップ。観客を引き込むのは、不可視の空間・画面外にダイナミズムを構成する「視線の語り」の巧さ。
成瀬のドラマは、画面上にはあまり現れなくともテクストに密やかに埋め込まれ、視線と編集によって観客の心理に届けられる。

阿部嘉昭『成瀬巳喜男ーー映画の女性性』
福田明彦『映画術ーーその演出はなぜ心を掴むのか』