【サイモン&ガーファンクルの痕跡を考えてみる】
原作を読んでいたが為の無理やりレビューな感じだ😛
川村元気さんの小説は構造小説だなんて批判をする人はいるが、あの売れっ子ミステリー作家には敵わないでしょとか余計なことも考えた。
こんな批判に加えて、話題先行でいわゆる”映え”をテーマのひとつに取ったとか、サイモン&ガーファンクルの同名の楽曲からインスパイアされて都合よく利用したななんて批判もあったのだろうか、映画として再構築された作品では、サイモン&ガーファンクルの痕跡はまったくといっていいほど無くなってしまっていた。
中学一年生になりたてで、”This is a pen”とか”Is this a pen?”なんて声を出して読んで練習していた頃、大好きな従姉妹のお姉ちゃんから、”英語が上手くなりたいんだったら、サイモン&ガーファンクルの歌を聴いたり歌ったりするのはいいかもね”なんて言われて、僕はLPレコードを2枚借りて、家に持ち帰って何度も何度も聴いていた。
発音は聞き取りやすく、総じて穏やかな曲は口ずさむにはもってこいだった。
別れや、死、そして、不明な消息。
長く生きていると色々なことがあるし、胸が締め付けられるというより押しつぶされそうになることも多い。
自分にとっては小説を読むよりもインパクトが大きかったりする。
そんな人は結構いるように思う。
そんな辛さもあってか、僕はだから、こんな感じの恋愛小説は極力読むのを避けている。
ただ、中学時代にサイモン&ガーファンクルを繰り返し聴いていた思い出や、同名タイトルの楽曲をよく知っていたことがきっかけで、この原作小説を手にすることになった。
映画「4月になれば彼女は」は原作小説を再構築した作品だ。
だから、ずいぶん異なる印象だったりする。
ただ、サイモン&ガーファンクルの「4月になれば彼女は」の歌詞の痕跡が僅かでも残っているような気がして、それに、おそらくポール・サイモンが歌詞に描かなかった部分は、僕たちに考えるように促しているところだと考えれば、実は映画の物語に重なる部分があるようにも思える。
「写らないものを写したい」
「自分より大切なことを見つけたい」
「愛を終わらせない方法、それは手に入れないこと」
これらは原作でも映画でも(映画では異なる表現に置き換わっているけれども)考えさせられる言葉なのだけれども、一生懸命考えを巡らせても答えになかなか辿りつかない問いでもある。
サイモン&ガーファンクルの「4月になれば彼女は」は、4月から9月までを対象に短い歌詞が韻を踏んで展開しているところが大きな特徴だと言わている。ただ、僕は歌詞で韻を踏むのは当たり前だと思うので、どちらかと言うと、4月と8月の倒置法と、時制の倒置の方が印象的なんじゃないかと考えている。
“April come she will(4月になれば彼女は)” から始まって7月までは未来形の詞だが、8月に唐突に“August die she must” となり、9月は “September I remember” と過去につながるのだ。
映画の中のサイモン&ガーファンクルの「4月になれば彼女は」の痕跡とは、この8月の歌詞だ。
ハルのことだ。
歌詞の8月は実際の死ではなく、別れを表しているというのが一般的な解釈だが、小説や映画ではハルの死として痕跡を残しているのではないのか。
そして、9月で終わるポール・サイモンの歌詞は10月から3月を描いていない。
この余白は、僕たちが想像するところなのではないのか。
それは、”写らないものを写す”とか”自分より大切なものを見つける”、”愛を終わらせない方法”とは何なのか考えることに通じているのではないのか。
映画は小説とは異なり映像が最大の武器だ。
しかし、ウユニもプラハもアイスランドも”映え”より、ハルの気持ちに寄り添って描かれているように思える。
ハルがホスピスで撮ったポートレイトは、単に表情だけじゃなく皆の人生全てを写し出してはいなかったか。
小説とは異なる形だったが、ハルは藤代にハルを忘れて前に踏み出すことを祈っていたんじゃないのか。
ハルは、愛を終わらせないのは、生きてこそであり、愛を伝えることだと知っていたのではないのか。
そして、実は、僕たちも本当はこれを既に知っているのではないのか。
それをこの原作や映画は伝えたいのではないのか。
小説を読んでいただけに、違和感が残ったことは確かだし、そこはちょいとマイナスだと思っているけれども、森七菜さんの存在感は加点したい。
もし良ければ、原作も手にとってみてください。
あっという間に読めるので、図書館で借りるのも良いと思うし。