映画館で映画を観ることは、出自も年齢もばらばらの人たちが、ひとつの目的をもって同じ場に集まるということだった。
映画内映画を観る彼らを私たちは観ている。正面ショットの彼らがスクリーンからまっすぐ視線を送るとき、映画の嘘もまた私たちを観ていることを知る。
映画の嘘、虚構はまさにぺらぺらの幕に映写される幻影で、でも幻影は生身の人間が演じ作り出すものだった。映画の起源もまたファンタスマゴリアと呼ばれる幻影だった。
嘘が立ち上がる瞬間に涙が止まらない。
虚構の中でのもうひとつのテーマは「名前」だった。一瞬だけエストレーリャという名前が再び出てくる。ミラグロス(これは名前ではなく単語の「奇跡」として、カール・Th・ドライヤーの『奇跡』のことが一瞬語られる)も出てくる。そしてアナ・トレントがまたもアナという名前を演じる。50年後の彼女をつぶさに見つめることを観客に要求するかのようなアップ。予想どおりの「ソイ・アナ」、ファンサービスかよと思いながら涙が溢れた。
フリップブックでみる『ラ・シオタ駅への到着』から映写設備のデジタル化が一気に進んだ2012年ごろまでのあいだの、映画と映画館の歴史の中継点にビクトル・エリセがいて、『ミツバチのささやき』『エル・スール』も地続きにある。
瞳がとじられる。フィルムに焼き付けられた像を投影する集合型鑑賞への鎮魂。