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瞳をとじてのT0Tのレビュー・感想・評価

瞳をとじて(2023年製作の映画)
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2024.3.10 18-22

ビクトル・エリセを一生懸命追いかけては無いけど、結構おもしろかったです。『ミツバチのささやき』と『エル・スール』の「見える」とか「見る」から一歩進んで、「まなざし/瞳を閉じること」を主題にしているように思いました。

俳優の生は、映画作品によって二重化される。一つはフィルムの表面に焼き付けられ、もう一つは未規定な身体をもつ。しかしそれは俳優の生に限られたものではないかもしれない。未規定な身体は、人々との関係のなかに痕跡を残す。この痕跡こそが生を二重化し、もう一つの生となる。この映画の失踪する俳優は、足跡を残すこと無く消えるも、関係のなかに痕跡を残す。映画監督のミゲルはこの断片的な痕跡をもとに失踪した俳優フリオを追う。

この映画において印象的なのは、顔のショットである。顔にこそ未規定な身体としての生についての表現を求める。フィルムに焼き付けられることの無いもう一つの生。しかしこの映画が特異なのは、その顔はただ眼差しを被るものでは無い。顔は、他者を見る。相互のまなざしによって生を確認する。映画に映る者たちは、観客を見、観客は映画を見る。この映画において繰り返される切り返しのショットは、見つめらると同時に見つめる顔の二重性を捉える。見つめ見つめ返すという仕方で、人々は生の二重性を確認する。この生は二重性によって成立する。

しかし瞳を閉じることは、目を開ける以上によく見ることなのでは無いだろうか。最後、フリオとミゲルはスクリーンに向かって同じ方向を向いているも、カメラの切り返しによってフリオとミゲルは対面する。その時、フリオが瞳を閉じる。この瞳を閉じるという振る舞いはこれを含め3回出る。1回目はアナが横たわるフリオを目の前に「私はアナ」と唱えるシーン、2回目は『別れのまなざし』の映画のなかでの王が娘のアイメイクを拭うシーンと反対に娘が死んだ王の目を閉じさせるシーン。2回目の映画だけに着目するのであれば、目を閉じさせることによって相手を対象化させる「死」を想起する。とはいえ、瞳を閉じることは、端的に死を意味するのだろうか。最後のフリオが目を閉じるシーンは、端的に死を表しているわけでは無いだろう(この映画がフリオに対する弔いというより復活を志しているように思う)。
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