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悪は存在しないのT0Tのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
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2024.5.4 35-46

やっぱり濱口竜介はすごい監督だ…。この映画は、とにかくたくさんの問いが、謎が提示されたように思う。

・なぜゴダールなのか?
見ての通り初めのタイトルクレジットは、ゴダールの映画、特に60年代の頃のゴダール作品に見られるクレジットの出し方である。音楽の挿入にゴダールの影響があると答えているが、濱口はどのようにゴダールの音楽を捉えているのか。

・カメラについて
この映画は、さまざまなトラヴェリングがあったように思う。冒頭とラスト、合間にも見られたカメラが上方向に向けられたトラヴェリング、だるまさんが転んだで遊ぶ子供たちを撮るトラヴェリング、森の中を歩く匠、花についていくトラヴェリング。かと思えば、突然車の内部にカメラを置き、車側の視点から撮られたショットや、役者がカメラを覗き込むショット、岡ワサビや腐った鹿の白骨から見たショットが挿入されたりと、異質なショットが急に挟まる。あれは、なんなんだろう。

・映らないものについて
この映画で存在感を放ちつつ、映らないものは、猟師だ。山の中に位置し、鹿を撃つのだが、音のみが響きその存在は見せない。ただ猟師たちのこの見えない行為は、その外にいる者たちにも多大な影響を与える。それは、手負いの鹿の話、ラストの展開によって示されている。

・「影響」と「バランス」からなる論理
この映画の話の根幹は、影響とバランスであると思う。それは、この映画の論理の核にある。ある対立する二つの項、例えば「田舎を開発する東京の会社」と「その土地の住民」があるわけではない。在るのは、お互い行為しそれが互いに影響し合う「力関係」であり、問題はその「力関係」のバランスである。人間は自然と対立しない。人間も一つ自然であり、ただ他を支配する強い能力を持った自然であり、それがまた強大な他の力(例えば水であり土であり)と対立する時に初めて、「自然と人間」という対立が表出する。この土地で生きる人々は、その「力関係」がよくわかっている人であり、東京=資本主義=植民地主義は、「人間=東京」の圧倒的優位を前提とした上でその対立関係を「存在するもの」として持ち出す。要は、東京=資本主義側の論理すべて力関係を無視し対象にすればコントロールできる、所有できると考える。ただ在るのは力関係なので、開発側の傍若無人な振る舞いは上から下へと影響する。
 ラスト、匠が東京から来たオレンジのダウンの男を締めるのは、男の命を引き換えにして娘を助からせるためか。バランスを保つためなのか。

・子ども、花について
実は、というより、おそらく明確に出していると思うが、何よりこれは「花」の話で在るように思う。冒頭と最後の上方向に向けたトラヴェリングは、「花」の視点である。子どもである花は、大人たちの会議から締め出されるが、全く聞いていないわけではない。彼女は、森を移動し、森にある動植物を見分け、羽を見つけ、鹿と対峙する。森を支配しようとする大人、それに対しバランスを保とうとする大人にかき分けて、車の通る駐車場で遊び森を彷徨う子ども。支配もバランスも保つことのできない強大な自然の「力」に直面するのが子どもである。花は、まさにそれに直面する。
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