【エスプレッシーヴォ】
原作を知らないのだけれども、大森さんのこれまで取り組んできた作品の登場人物とこの登場人物が重なるところがあると思う。
ただ、意図が伝わりやすいかは別にして、この作品は考えれば考えるほど複雑で面白いと思う。(※その為、大筋は変えてないけれども加筆修正しています。)
“マイノリティ”という言葉はかなり一般的になったと思う。
性的マイノリティ、人種や民族的なマイノリティ。否定的な意味で騒ぎ立てるだけのノイジー・マイノリティという表現もある。
しかし、この作品で描かれるのは、この”マイノリティ”という言葉でさえ多数に感じてしまう少数者についてだ。
雑誌記者の由季が途中で話す「エスプレッシーヴォ」は”(表情)豊かに”という意味の音楽用語だ。
だが、この映画「湖の女たち」の主要な登場人物にはほとんど表情がない…というか、ハッキリ言って死んでいる。
この作品も、世間とか、常識とか、モラリティの範疇の外側にいるものたちで、且つ、家族愛とか仲間とも距離を置くマイノリティと呼ぶのも少し違うような少数者、特に性的倒錯者にフォーカスしているのだと思う。
(以下ネタバレ)
ただ、これまでの大森作品では、こうした少数者は大概自滅的な存在として描かれることが多かったと思うが、この作品では、自滅的なものもいれば、密かに社会的地位を得たもの、息をひそめるようにして生きているものもいるという異なる趣になっている気がする。
バードウォッチングは息をひそめた存在のメタファーとして使われているように思える。
圭介も佳代も、それぞれサディズムやマゾヒズム的な存在であり、マスターベーションを見せ合う性的倒錯者だ。
リスクの高い血液製剤の治験で多くを死なせたにもかかわらず医学会の頂点に上り詰めたとされる人物は、満州の731部隊の生き残りで、ある意味、シリアルキラー的な感じもするが、ロシア人の少女と日本人の少年を全裸にして死なせ、どこかに性的倒錯者の影が見て取れるように思える。
そして、程度の差こそあれ、本性が明らかにならないように息をひそめ社会に溶け込んで生きているのだ。
一方、自滅的な刑事。
これは対比だ。
性的倒錯者とはどのようなものなのか、また、社会に溶け込むシリアルキラー的な存在、巻き起こる事件とは、過去との結びつきと、ぼんやりだが、手繰り寄せられたこの事件の真相らしきもの。
LGBTQなどノンバイナリーや性的マイノリティに対する社会的な理解は進んできているように思うが、では、こうした性的倒錯者で息をひそめ誰も傷つけず生きているものたちがいて、彼らはどんな気持ちで日々生活しているのだろうか。
やはり表情も押し殺して死んだようにしているのだろうか。
それを考えることは意味のないことなのだろうか。
僕は、事件の真相を明らかにする方が良かったんじゃないかとも考えた。
ただ、”生産性のない”弱者を切り捨てるべきと考える風潮が若い人たちの間で密かだが脈々と確実に存在しているのではないのか。
そして、またいつか悲劇につながるのではないのか。
事件化するかしないかだけで、実は、為人(ひととなり)が明らかにならないという点で、この作品の疑わしき若者と、僕たちが”犯罪を犯しそうだ”と疑念の視線で見ている性的倒錯者らしき少数者も同じではないのか。
これも対比だ。
こう考えると、ハッキリとした真相に辿りつかない方が暗示としては良いという考え方なのかもしれないとも思った。
同じ日に公開された「ミッシング」もそうだが、良い方法など見つからないものの、感情移入を避けて、考えるきっかけを見つけるような作品だと思う。